伊丹十三監督の映画メイキング術に学ぶ

今回は映画監督・伊丹十三さんのメイキング術から学んでみましょう。

 

お葬式」「タンポポ」「マルサの女」「大病人」など、伊丹十三さんの映画って、実に面白いし、独特の味がありますよね。

 

彼の映画はもちろん楽しいですが、メイキング、つまり映画の制作過程の話も、本当に興味深いのです。

 

以前、伊丹十三監督の著書「『大病人』日記」を読んで、一本の映画が完成するには、実に様々なことが考えられていて、試行錯誤されているんだなぁと深く感じ入った記憶があります。

 

伊丹フィルムの制作術を突き詰めると、以下の3原則になるらしい。

 

●退屈させない。

●中身が濃い。

●映画に対する愛をかりたてる。

 

伊丹映画はすべて見ましたが、確かに、上記の3原則は、厳格に守られていますね。

 

「退屈させない」という言葉の裏には、極上のエンターテインメント精神が息づいているようです。

 

「中身が濃い」というのはまさにその通りで、彼のシナリオを読むと、内容の質量は膨大であって、それを四苦八苦して2時間程度に凝縮している。だから、中身はパンパンに詰まっているのは当然です。

 

「映画に対する愛をかりたてる」という言葉は深いと思います。

 

それにこの言葉は、私たちブロガーへの実にありがたいアドバイスと言えそうです。人気ブログを作るためには、技術だけではなく、その分野に対する深い愛情が前提となるのです。

 

ブログは個人のためのメディアですから、自分の好きなことを書くのが一番。個人の「好きなこと」も、その純度と強度が高ければ、表現に徹底感が生まれるので、読者は快感を覚えます。

 

作者の愛情が、読者に飛び火するくらい、激烈でないと、表現に面白さや独自の味は生まれにくのです。愛の炎は純粋に燃えていて、初めて読者が鑑賞に価する作品となります。

いみじくも、あの名監督・伊丹十三さんの作品は、それを実践して見せてくれています。

あんな天才と同じようなこと、ふつうの人にできるわけがない、などと言わないでください。

 

伊丹十三監督のような才能は稀有です。しかし、純粋に何かを好きになったり、愛したりすることに才能は要りません。

 

人は好きになる動物です。愛する生物です。ただ、そういう本来の欲望を、何かが邪魔をしてブロックしている場合が多い。

そういう状態が長くつづくと、自分は何も好きになれないと勘違いしてしまいます。

 

もし、あなたが一つことに深い愛情を抱けないと感じているなら、かたくなになった気持ちをゆるめて、素直になることから始めてみてはいかがでしょうか。

 

ブログに好きなことについて、素直につづり続け、それを読んだ人がブログへの愛情をかりたてられるとしたら、

これほど素晴らしいことないでしょう。

 

伊丹さんが掲げる3原則を確かめたい方は、ぜひ、彼の映画を見直してみてください。

「抱きしめたい」が、心の糧

久しぶりに風花未来の日記です。

日常生活は地味です。テレビドラマのように5分おきに事件が起きる、なんてことはありません。毎日の暮らしでは心が華やぐことは滅多にあるものではなく、小さなことの積み重ねの連続で、その地道な作業が、ほんの一瞬の歓びをかなえるのです。その束の間の歓びも、何年に一度、来るかこないか……それが、現実ではないでしょうか。

では、日々の生活は辛いかというと、心の持ち方で、かなり違ってきます。

同じ地味な日常を送るにしても、常に、未来への希望であるとか、大きな夢を持っているのと、そうではないのとでは、日々の快適度はまるで違うのですね。

ですから、ありふれたことですが「夢」や「希望」は持っていた方が良いのであって、というか、持っていないと、とても長くて平板な日常生活に耐えられるものではない、そう思えて仕方がないのです。

夢とか、希望とかいう言葉が、あまりに月並みであるならば、それを「抱きしめたいもの」という言葉に置き換えてみてはいかがでしょうか。「抱きしめたいこと」「抱きしめないひと」でも、もちろん、かまいません。

そういえば「抱きしめたい」という名曲もありましたね。

「抱きしめたいもの」は、写真で撮影できるような現実のものでなくても良いでしょう。手でつかむこともできない、夢や幻でも、さしつかえないと思うのです。

そうした、「極めて愛しいもの」を心の中に持っていれば、いろんな苦境も乗り越えやすいと思います。

ただ大事なのは、抱きしめたいほど一心に愛していることです。

私にも「抱きしめたいもの」はあります。そうした激しく愛している人なり、愛しきことがありさえすれば、強い願望が完全には満たされなくても、前に進んでゆく原動力になることは間違いありません。

「抱きしめたいもの」こそが、心の糧。「抱きしめたいひと」が、雨の日も風の日も、励ましてくれ、重くなりがちな足取りを軽くしてくれることでしょう。

その「抱きしめたいひと」「抱きしめたいこと」「抱きしめたいもの」を、自分なりの方法で描き切ることが、ライフワークにつながってゆく気がしてならないのです。言葉による表現だけでなく、あらゆる営みに当てはまるでしょう。

抱きしめたい」、そう誰にはばかることなく、叫びたい気持ちが、本当に大事だと感じています。

読みにくい慣用句の漢字

当ブログ「美しい言葉」では、間違えやすい漢字について、何度かお伝えしていますが、慣用句の中にも、読みにくい漢字があります。

 

今回は「読みにくい慣用句の漢字」を取り上げます。

 

以下の慣用句を読んでみてください。

 

 

徒となる(   )首を回らす(   )吝かではない(   )十重二十重に(   )野に下る(   )鎬をけずる(   )

臍をかむ(   )験をかつぐ(   )身を粉にする(   )音をあげる(   )分が悪い(   )斜に構える(   )

 

 

いかがでしょうか? すらすら読めた人の方が少ないかと思います。意味も間違えていないでしょうか。

 

では、以下、正解をご紹介しますね。

 

徒となる【あだとなる】無駄になる、害となること。

 

首を回らす【こうべをめぐらす】頭を後ろに向けて、振り返ること。過去を振り返る、思い出すという意味にも使う。

 

吝かでない【やぶさかでない】何かをする努力を惜しまない、喜んで、何かをすること。

 

十重二十重に【とえはたえに】いくえにも重なるように、取り囲んでいる様子。

 

野に下る【やにくだる】公職を退き、民間の生活にはいること。

 

鎬をけずる【しのぎをけずる】刀の鎬を削り合うように、互いが激しく切り合うことから、激しく争う様をいう。

 

臍をかむ【ほぞをかむ】及ばないことを悔やむこと。

 

験をかつぐ【げんをかつぐ】良い前兆や縁起を気にすること。

 

身を粉にする【みをこにする】辛いことをいとわず、努力すること。

 

音をあげる【ねをあげる】弱音を吐くこと。

 

分が悪い【ぶがわるい】形成が不利なこと。

 

斜に構える【しゃにかまえる】まともに向き合わず、皮肉な態度で接すること。