今回は、黒澤明監督の映画「羅生門」を分析をしてみたい。きっと何かが得られるだろうから。
まずは「羅生門」の概要をご紹介。
「羅生門」(らしょうもん)は、1950年(昭和25年)8月26日に公開された日本映画。
監督は黒澤明、出演は三船敏郎、京マチ子、森雅之、志村喬。音楽は早坂文雄が、撮影は宮川一夫が担当。
原作は、芥川龍之介の短編小説 「藪の中」。
ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞とアカデミー賞名誉賞[注釈 2]を受賞。
では、以下、映画「羅生門」を分析してみます。
[設定]
■場所:主に羅生門と藪の中。
■時間:平安時代の一日の数刻。
■人物:8人程度。
■スタイル1:時代劇。扇状型回想形式の変形。回想の内容はそれぞれ独立させ、一編のドラマとして成立させる。
■スタイル2:シェイクスピア的哲学映画。劇(ドラマ)の面白さを充分に見せながら、極限下で人間はどういう行動をとるか、人間の心は信じられるかという命題を追求。
■スタイル3:様式美、映像美を追求した芸術映画にヒューマニズムを加味。パントマイムと言葉の力との合体。
■視点:多視点構成。
■テイスト:みなぎるエネルギー、生命感の充溢、真実の強調、動的でコントラストの激しい画像、感覚の冴えが特徴。
[構成]
強固な構築性、整った様式美が特徴。
プロロ-グで問題提起。それぞれの登場人物にそれぞれの立場で事件の内容を語らせながら、謎を深めるとともに、羅生門の下で話す人物の心の変化を描いてゆく。
すべての話が終わった時点で絶望的な状況を設営。それをエンディングのキコリの意外な行動により、ヒューマニズムを提唱。
人間の真実を残酷なまでにシャープに切って見せること、それに生きることへのメッセージを付加。
大抵の秀作と呼ばれる作品は、どちらか一方なのだが、黒澤明は貪欲にその二つの要素を合体している。
[総括]
小説でも演劇でもない。総合芸術である映画の魅力が最大限に発揮されている。
小説を原作としたシナリオで「羅生門」ほど成功した例を他に知らない。何もかもが冴えている。
何よりも大切なのは、この映画は表現活動そのもののすばらしさを我々に伝えていることだ。そして、表現は確かな型と頑強な構築力を得た時、光り輝くことを教えてくれている。
付け加えておきたいのは、思想のバックボーンである。
明らかにこの映画の背後には、ドストエフスキーとシェイクスピアがいる。人
物観察、単純で強烈な表現、そして人間への惜しみない愛情は、西欧の天才から吸収したものに違いない。
芥川龍之介からは、設定と部分的な表現技法と言語ベースを盗んでいるに過ぎない。
[再チェック]
もう一度、見直したので、気づいた点を列挙しておく。
●壊れかけた山門の下で語り合う3人のキャラクター設定がいい。全くタイプが違い。話す内容も面白い。4つの話に反応し、変化してゆく男たちが鮮明に描かれている。
●最初の山門でのシーン、ここで謎の提起。あらゆるものよりも、もっと恐ろしい話だと前振る。
●女の持っていた短刀が見当たらなかった。これが伏線。太刀のゆくえはラストまで物語に絡む。
●圧倒的な映像美。強烈な木漏れ日。地面に落ちる木の葉の影。光と影のコントラスト。
白い帯となって落ちる木漏れ日。日を受けて輝く、小さな清水の流れ。その水で手を清める女。背後には白い馬。振り返った時の女の美しさ。絵のような構図。
●俳優たちの存在感。
●アクション映画でもあり、心理劇でもある。躍動的なたちまわり。大袈裟なボディーアクションが効いていて快感。
●最も印象的で美しいシーン。男が短刀を胸に刺し、その姿勢のまま巫女がゆっくりと倒れるシーン。何度みても快感が走る。
●巫女の表情と動作の変化は圧巻。静と動の使い分けが極端であり、それが見る者を揺さぶる。
●展開力。次がどうなるのか、全く予想がつかない意外性のある展開。それぞれの人間がどのようなアクションを起こすのか、見る者を驚かしつづける。
●女の激しい豹変ぶりは、凄まじい。二転三転する。泣いていたかと思うと笑い出し、今度は怒り、開き直って嘲り出すというふうに。
●捨てられた赤ん坊の登場でドラマは終結に向かう。
●雨上がりの効果。赤ん坊を抱きながら立ち去るキコリ。シルエットになる山門と旅法師。様式美の完成を告げるラスト。
※ドストエフスキーの影響がかなり色濃く見られるが、大文豪の強烈な個性と生理に負けないで、自己の映像世界を明快に打ち出したことはすごい。模倣とか変換を超えた本来の創造の姿がある。