今回は室生犀星の「本」という詩をご紹介。
本
本を読むならいまだ
新しい頁をきりはなつとき
紙の花粉は匂ひよく立つ
そとの賑やかな新緑まで
ペエジにとぢこめられてゐるやうだ
本は美しい信愛をもって私を囲んでゐる
「新しい頁をきりはなつ」の意味がわからないと思います。
昔の本は、袋とじになっていて、ページをナイフなどで切り離さいと、読めなかったのですね。
室生犀星は1889年〈明治22年〉8月1日に生まれ、1962年〈昭和37年〉3月26日に死去しました。享年72歳。
亡くなったのが昭和37ですから、パソコンもスマホもない時代。しかし、その当時の人は、今よりもずっと本を読んでいた。もちろん一部の人たちですが、そういう傾向が強かったのですね。
NHKと民法テレビ局が開局したのが、1953年ですから、テレビもほぼない時代に、室生犀星は生きた、このことは知っておくべきでしょう。
私は10年以上前にテレビを断捨離しました。もともとテレビなどなかった時代のことを想うと、その頃を生きた人が羨ましく感じることがあります。
私は生まれたと同時にテレビがあり、いわゆるテレビっ子世代です。
パソコンは大人になって急速に普及し、インタネットは一日も欠かせない日々を送っております。
心の底では、パソコンやスマホから逃げたい気持ちが脈打っているのですが、パソコンとスマホの断捨離はまだできていません。
何が言いたいかと申しますと、テレビもパソコンもスマホもなければ、もっと本が読めるだろうにと思うのです。
自分で言うのもおかしいのですが、私は意志が弱く、ストイックでもありません。
ですから、読書と執筆を中心とした生活に切り替えるためには、パソコンとスマホを捨てないと無理だと思っています。
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」に、どっぷり浸るためには、獄中生活を送るしかないのかもしれません。
話がそれてしまいましたが、令和の時代に、読書する、本を読むことは大変です。
いろんな誘惑も多く、つまり、ラクをして情報収集できる主題がいろいろあって、わざわざ本を買って読むなど、とても習慣化しません。
それでもなお、ゆったりと、カフェの片隅で、静かに読書したいと無性に思う時があります。
室生犀星の生きた時代は、詩人が詩人らしく生きるには恵まれていたとも言えます。
ただし犀星は、戦後は小説の方に専心したようですが……。
三木清という哲学者は、読書する前に、本棚から本を取り出す時、必ず両手を合わせて拝んだそうです。
昔は、読書という行為には、どこか神聖な、高貴な、精神的な薫りが漂っていたのでしょう。
体調を崩し、療養中の私ですが、これから新たな読書への目覚めが、あるかもしれない、と密かに期待でしているのです。