成瀬巳喜男監督の映画「流れる」を鑑賞。

 

「流れる」は、1956年に公開された日本映画。

 

日本の情緒、滅びの美学を、零落する芸者置屋を舞台に存分に描き切った名作映画だ。

 

古き昭和の名女優たちが大集結している点も、映画のオールドファンにはこたえられないだろう。

 

梨花(お春):田中絹代
つた奴:山田五十鈴
勝代:高峰秀子
なな子:岡田茉莉子
染香:杉村春子

 

以上5人の女優たちが、陰影豊かな演技を披露してくれていて、最初から最後まで目が離せない。

 

山田五十鈴の美しさ、高峰秀子の哀愁、田中絹代の渋みが、特に際立っていた。

 

私自身、2週間の入院生活を終えた後だから、これらの古き良い昭和女優の競演を、しっとりと楽しみたに違いない。

 

私の母親が愛した女優たちに、これまで全く興味がなかったし、その演技力を味わう鑑識眼も持ち得なかった。

 

だが、今回鑑賞してみて、やはり映画「流れる」は、名作として語り継ぐ価値があると痛感した。

 

映画「流れる」の原作は、幸田文の同名小説。

 

幸田文は「流れる」というタイトルについて「しあはせになつてあちらの方へ遠く離れて行くのを見送つてゐること」のように思われる、と書いている。

 

隅田川沿いの風景と町並み、人々の暮らしぶりを背景にして物語が進んでゆく。

 

「流れる」は、墨田川の流れであり、時代の変化であり、登場人物の自分の運命に流されるような主体性の薄い人生の流れなどを、象徴しているように私は感じた。

 

成瀬巳喜男監督の抒情表現は見事である。

 

しかし、そこに意味性や哲学はない。情緒のための情緒であり、美意識の美が存するだけだ。

 

まさに、それが成瀬巳喜男フィルムの精髄であろう。