「山の音」は日本映画の隠れ名作

近所にあるTSUTAYAで、成瀬巳喜男監督の「山の音」を借りてきました。

 

ただ今、観終わったのですが「これは日本映画の隠れ名作だ」という言葉がふと浮かんできたのでした。

 

もちろん、成瀬巳喜男の作品は他にも観ていますが、展開がスローで、なかなか、のめり込めないという記憶が強いのです。

 

しかし、「山の音」は「この映画はぜひ観ておくべきかもしれないよ」と、語尾を少し弱めながらでも、人に薦めたくなったのでした。

 

特にラスト20分は秀逸です。このラストがなかったら、普通の映画かもしれない。

 

映画「山の音」はこちらで視聴可能です

 

映画「山の音」は1954年に公開された日本映画。監督は成瀬巳喜男。主な出演者は、原節子、山村聡、上原謙。

 

原作は川端康成の同名の小説。成瀬巳喜男の傑作と呼ばれる「浮雲」とは異質な世界観が描かれています。テンポの悪さは同じですが「山の音」の方が、映像が美しく、はるかに新鮮な印象を受けました。

 

これは父と娘の物語。でも、血はつながっていません。山村聰の息子の嫁が原節子。この2人が主人公と言って良いでしょう。

 

ですから、小津安二郎の「晩春」などで描かれた、しみじみとした父と娘の関係とは、まるで違うのです。「山の音」で描かれる父と娘の関係を、どんな言葉で表したら良いのでしょうか……。

 

不幸な物語であるにもかかわらず、その映像世界は、異様に澄み切っている。神聖な静けささえ感じさせる、不思議な空気感こそ、この作品の存在価値かもしれない。

 

黒澤明や小津安二郎の映画によく出てくる原節子の現実離れした存在感。実際にはこういう女性はこの世には絶対にいないだろうけれど、映画の中に登場してくると、神々しいばかりの光を帯びてしまう。この現象は、他の監督作品と同様でした。

 

問題は原節子の義理の父親を演じた山村聰です。これはもう、日本映画史上に残る名演技としか言いようがありません。

 

これをハマり役というのか、原節子との距離感をここまで滋味深く演じ切られると、絶句するしかないわけです。

 

だが、もしかすると、山村聰さんはご自身の標準的な演技をされているだけなのかもしれません。それが神レベルの演技に見えてくるところが、この「山の音」という映画の奥深さだとも思えてくるのです。

 

二十代の頃から、映画好きの友人が多かったのですが「山の音」は傑作だから観たほうがいいよ、と言ってくれた人は一人もいませんでした。

 

だから、あえて、こう申し上げたいのです。

 

「山の音」は作風として余りにも渋いけれども、特別な輝きを持つ傑作だから、ぜひ見て欲しい。この映画の異様なまでの清澄な空気感を味わうだけで、映画の「もう一つの素晴らしさ」を発見できるから。

 

この作品の映像は、現実とはかけ離れた光に満ちているかといいますと、それは、この映画のもう一つのテーマは「」だからでしょう。

 

この映画に描かれている日常は普通の日常ではない。死の世界から見た日常生活である。そのために、陽の光もただならぬ輝きを帯びてくる。

 

朝の光あふれるシーンが、この作品には繰り返し出てきますが、朝の澄んだ空気というような生やさしいものではありません。朝の光は天上から降ってくるかのような聖い輝きを発しているのです。

 

しかし、こういう映画が、ひりひりと沁みてくるとは、無意識のうちに「死」というものを、身近に引き寄せているのかもしれません。その意味でも、「山の音」は、怖い映画でした。

「起承転結」か「序破急」か?

起承転結(きしょうてんけつ)」とか「序破急(じょはきゅう)」とかいう言葉を、聞いたことがないという人はいませんよね。では「起承転結」と「序破急」について、詳しく、正確に説明できる人はどれくらいいるでしょうか。また「起承転結」「序破急」という形式を実際に活用して、文章を書いたことがある人は……。

ヤフーの辞書を引いたのですが、かなりわかりにくいので、Wikipediaから引用させていただきます。

起承転結

起承転結(きしょうてんけつ)とは、物事の展開や物語の文章などにおける四段構成を表す概念。元々は4行から成る漢詩の絶句の構成のこと。

序破急

序破急(じょはきゅう)とは、日本の雅楽、能楽など日本の伝統音楽から転じて、連歌、蹴鞠、香道、剣術、抜刀術、居合道など芸道論で使用されることばである。さらに、文章構成などにおける三段構成を指す概念としても用いられる。

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朗読を聴いて美しい名文 中島敦「山月記」

言葉の魅力を再発見するとともに、文章力の向上を目指す「言響(こだま)プロジェクト」を開催したのは、2011年です。参加いただいた方には、自分が感動した文章、美しいと感じた文章などを、朗読(音読)していただき、それを録音して繰り返し聴くという勉強法をご紹介。

ご自分で朗読するという行為により、また、その音を聞くことで、言葉の流れ、リズムなどを、体得できるのです。

耳の良い人は、言葉のリズムに敏感です。そういう人は、リズミカルな文章を簡単に書けてしまうもの。

そこで、この記事では、朗読を聴くと美しいと感じる名文をご紹介することにします。

文章修業は長くて、孤独なものです。時には、趣向を変えた試みも必要でしょう。もちろん、耳で優れた文章を感じことは、たいへん有意義なことでもありますので、気分転換をかねて、名作を音で味わってみてください。

名文にも種類があります。朗読に適しているのは短い作品です。その意味で、短編小説の名作から聴き始めるのが無難でしょう。

文章を読んで良いなぁと感じても、朗読を聴いた時に、それほどでもない文章があります。言葉の組み合わせが、活字を読んだ時に効果をあげているけれども、音に変換した時には、リズム感が悪い文章はあるものです。

ですから、名文と一口に申しましても、朗読に適した名文と、朗読には向いていない名文があると言えます。

今回ご紹介するのは、もちろん、朗読を聴いた時に心地よい、また美しいと感じる名作。

朗読を聴いて美しいと感じる文章を、以下のタイプに分類してみましょう。風花独自の分類法です(笑)。

1)耽美的で人を酔わせる名文

2)軽妙でリズムの良い名文

3)端正で無駄のない理知的な名文

4)神秘(幻想)的で想像力を呼び覚ます名文

5)臨場感あふれる描写に優れた名文

今回ご紹介する作品はこれ。

山月記オーディオブック

販売サイトで簡単にダウンロードできますから、CDのように到着を待つ必要もなく、すぐに聴けるのも良いですね。またiPhoneで電車の中や、ちょっとした待ち時間に聴けるのも嬉しいかぎり。名作文学を聴くこと、美しい文章が、にわかに身近なものになります。CDと違って安価で購入できるのです。

高校の現代国語で学んだという人も多いのではないでしょうか。中島敦の名作であり、ごく短い作品なので、朗読を聴くのに適しています。時間はわずか21分ですから、集中力が途切れる心配もないでしょう。

上の名文のタイプから申しますと、1、4、5に該当します。つまり、幻想的で、臨場感にあふれ、怪しげな美に酔いしれることができるのが「山月記」なのです。

「山月記」の朗読は、実はさまざまなバリエーションがあります。いろいろなバージョンを聴きましたが、今回ご紹介している、江守徹さんの朗読が、もっとも豊かに「山月記」という小説世界の魅力を引き出していると感じました。

しかし、実は私にとって「山月記」の最高の朗読者は、高校時代の現国の先生です。あの先生の独特の演出だと思うのですが、教室に入ってくると何も言わずに教科書を広げて「山月記」を朗読し始めたのです。

素晴らしい朗読でした。全身、総毛だつほど、迫力に満ちた、私にとって一生に一度の朗読だったのです。

言葉の力、文学の奥深さ、音で聴く言葉の響きの美しさを教えてくれたのは、高校時代の恩師でした。江守さんのようには洗練されてはいなかっただろうけれど、一生忘れられない、朗読劇場となりました。

他にも、いろいろとご紹介したいのですが、今回は、江守徹さんの朗読による「山月記」のみとさせていただきます。

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