「・」ナカグロの使い方

「・」は、「ナカグロ」と読みます。「・」は、単語を並列する時に使います。例えば以下のように使用するのです。

 

ブログに書く話題は大別すると、ヒトモノコトに分類できる。

 

また、外国人の名前や外来語の区切りとしても使います。以下の例を参考にしてください。

 

外国の映画監督で、最も尊敬するのは、チャールズチャップリンとアルフレッドヒッチコックだ。

 

ただし、以下のような場合は、注意が必要です。

 

ブログにはヒトモノコトなど、何でも書いても良いのです。しかし、テーマは絞り込むべきです。

 

ピータードラッガーは「自分の強みに徹しなさい」という有名な言葉を遺しています。つまり、あなたの得意とするテーマを、ヒト・モノ・コトから、見つけ出す必要があるのです。

 

上のように書きますと、「・」が、単語の並列と外国人の名前の両方に使われていますので、読みにくい場合が生まれます。そこで以下のように、「・」を「、」にかえる方が無難です。

 

ブログにはヒト、モノ、コトなど、何でも書いても良いのです。しかし、テーマは絞り込むべきです。

 

ピーター・ドラッガーは「自分の強みに徹しなさい」という有名な言葉を遺しています。つまり、あなたの得意とするテーマを、ヒト、モノ、コトから、見つけ出す必要があるのです。

山田洋次監督の映画「ダウンタウンヒーローズ」感想

ダウンタウンヒーローズ」をDVDで、初めて鑑賞しました。

 

自宅の近所に巨大なTSUTATAがあります。以前は、私がビックリしたほど「日本の名作映画コーナー」が充実していて、「日本映画の伝統はこうして語り継がれているのか」と頼もしい気持ちになったものです。

 

ところが、最近になって、「名作映画のコーナー」は縮小化が進められ、いつか無くなってしまうのではないかと心配になるほどです。

 

明治維新後、日本人が作った文化的作品の中から映画を除外したら、ほとんど残らないと思えるほど、日本映画には傑作が多いのです。

 

だから、どんなことがあっても、名作映画だけは語り継ぎ、国は新人監督を育てる努力をしなければいけないと思うのですが、そういう流れには、どうやらならないみたいですね。

 

レンタル店の片隅に追いやられた「日本の名作映画コーナー」のさらに目立たないところに「ダウンタウンヒーローズ」は置かれていました。

 

以前は、山田洋次監督の独立したコーナーがありまして、そこにはほぼ全作品が揃えられていたものでした。でも今は、寅さんシリーズを除くと、5作品程度しか残っておりません。インターネットレンタルの方にまわされてしまったのでしょうか?

 

なかなか本題に入れませんが(苦笑)、この「ダウンタウンヒーローズ」。一言で申しますと、ぜひ見ておきたいB級作品です。

 

「ダウンタウンヒーローズ」は1988年の松竹映画です。ここに描かれている若者たちは余計なものを何も持っていません。この映画に登場する薬師丸ひろ子柳葉敏郎らが持っているものは、「若さ」と信じがたいほどの「純情」だけです。

 

ふと思ったのは、この映画に感情移入できない人も多いかもしれないこと。解説付きでないと理解できないということになると、エンタメ映画として機能しなくなることなのですが……。

 

1988年当時では解説なしで通じたことが、2012年では、特に10代~20代の人たちとの間では、接点が失われ、対話不能の映画になってしまっているかもしれないと心配にもなりました。

 

いえ、それは単なる杞憂でしょう。この作品は時代を超えて語りかけてくる力を持っていると信じたい。

 

「ダウンタウンヒーローズ」で躍動する若者たちは、ただひたすら貧しく、便利なものは何一つ持っていません。しかし、2012年にいる私たちからすると、理屈抜きに「うらやましい」と感じざるをえません。

 

この映画を見て楽しんでいる間は「息苦しい日常から解放」されます。長いこと忘れていた「伸びやかな気分」が取り戻せます。

 

「何も持っていないことが、これほど幸せなこととは」、そうしみじみ感じ入りました。持っていない状態になるためには、今持っている物を、捨てれば良いのですよね。

 

マスコミが流す情報のほとんどは不必要ですし、スマートフォンも無理やり持たされている人たちが多い気がします。

 

物への執着心を捨てことを意味する「断捨離」という言葉を時々目にします。「捨てることは」静かなブームでもあるのかもしれません。

 

捨てることで、息苦しさから解放されるならば、捨てる方を選ぶ人も多いかもしれません。「ダウンタウンヒーローズ」の中にある「開放感」は郷愁などという生やさしいものではなく、2012年を生きる人にとっては「悲願」ではないでしょうか。

 

ダウンタウンヒーローズ」は、TSUTAYAに返す前に、もう一度、観てみたいと思います。

ハービー・山口「雲の上はいつも青空」の感想

友人にすすめられて、本当に久しぶりに写真集を買いました。文章もたくさん載っているので、フォト・エッセイと呼ぶべきでしょうか。

 

その本は、ハービー・山口の「雲の上はいつも青空」。

 

 

森山大道も多くの若い人たちから支持されていますが、ハービー・山口もかなりの人気らしいです。

 

雲の上はいつも青空」を、今日、いきつけのカフェで、じっくりと味わってきました。

 

なぜ、この本を私が買う気になったかと言いますと、発売日が2011/3/16 となっていたからです。

 

何十年も前の写真に力があることを私は知っています。今よりも、魅力あふれる被写体が世の中にはあったから。では、現代はというと、「写真の時代は終わった」という言葉があるほど、「撮りたいものが見つかりにくい時代」なのです。

 

そうした中、ハービー・山口は、どんな写真を撮り、写真について、どのように考えているか、そのことに非常に興味を持ったのです。

 

で、実際に、カフェで、この「雲の上はいつも青空」を開いて、じっくりと味わってみますと、いろいろと感じるところがありました。

 

写真

 

ハービー・山口の写真は、写真自体が写真として主張している時代の写真とは、明らかに違っていました。

 

「ハービー・山口って、どんな写真を撮っている人なの?」っていう人はこちらをご覧ください⇒ハービー・山口の写真

 

独自のスタイルとか、奇抜なアングル、斬新な手法とかがあるわけではありません。というか、むしろ、そうした写真(写真家)側からの主張を捨て去っているのが、ハービースタイルなのかもしれません。

 

山口さんは、ネガティブなことを一切語りませんが、実は心の底では「現代は写真の時代ではない」ということを知りぬいている。その上で、静かに、漂々と、人間を写している。その眼差しは温かいけれども、心情は熱してはいません。

 

物静かな写真たちは、「今は淡々と語る時なのだ」と悟っているかのようです。

 

テーマ

 

このフォトエッセイのテーマは、一言で表現するなら「わたしの歩く道」ということになるでしょう。

 

「わたしの歩いてきた道」でもあり、「わたしのあるいてゆく道」でもあるのですが、ハービー・山口は現役の写真家なので、今も歩き続けているわけなので「わたしの歩く道」と表現したいのです。

 

この難しい時代に、何を信じて、どのようなスタンスで、歩いて(生きて)ゆけば良いのか。その問いに、ハービー・山口は写真と言葉で答えています。

 

ハービー・山口は1950年生まれですから、60歳をこえています。が、この人はたいへんカッコイイのですね。

 

なぜ、カッコイイかというと、中学2年の時にプロのカメラマンになると決心して以来、わずかなブランクはあったものの、ずっと写真を撮り続けているからです。

 

一つことを、しかも、自分が一番好きなことを、ずっと続けている人ほど、格好いい人はいないわけです。

 

ですから、若い人たちに信じてもらえますし、愛されるのですね。

 

もちろん、そのハービー・山口の写真に魅力があることが前提となっていますが(笑)。

 

ハービー・山口の写真の最大の特徴はというと、人間に対する温かい眼差しを感じさせることでしょう。

 

彼自身、たいへん象徴的に、自身の写真観を述べているので、その言葉を引用しています。引用元は「雲の上はいつも青空

 

人間が人間を好きになる。なんと素敵なことだろう。その一端でも担うことができたら写真家とは素晴らしい存在だと思う。

 

文章(言葉)

 

自分のことを語りつつも、自己主張は極力、抑えられています。

 

絶望感、孤独感など、ネガティブなことは語りません。たぶん、現代においては失望し始めると、底なし沼にはまってしまうことを、ハービー・山口は知っていて、次世代をになう人たちにを、励ますこと、勇気を与えることを、主眼にしているからでしょう。

 

ハービー・山口の写真とエッセイにある「ゆるやかさ」には、渇いた時代を生きる人たちを癒す力があることは間違いありません。なぜなら、彼の持つ「ゆるやかさ」は、曲がりくねった茨の道を知っている人にしか出せない味だからです。

 

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