山田洋次

「男はつらいよ 寅次郎恋やつれ」で発見した吉永小百合の特殊な影響力。

久しぶりに「男はつらいよ」シリーズを見た。今回鑑賞したのは、シリーズ第13作目「男はつらいよ 寅次郎恋やつれ」だ。

「男はつらいよ 寅次郎恋やつれ」は、1974年8月3日に公開された日本映画。観客動員数は194万4000人で、シリーズ歴代 1位を記録した。

マドンナ役は、吉永小百合。吉永小百合は、薄幸で純粋な女性を好演。というか、吉永小百合であることを、全身で演じているかに見えた。

キムタクこと木村拓哉は、常に木村拓哉を演じてきている。木村拓哉以外の役を演じたら、背徳となるかのような宿命を背負っているかのようだ。

吉永小百合も同じである。一度、犯罪者の役を「天国の駅」という映画で演じたことがあるが、やはりその時も、吉永小百合であった。

吉永小百合は悪女を演じても、あくまで聖女なのである。

では、今回見た「男はつらいよ 寅次郎恋やつれ」はどうか?

いつものように、吉永小百合は吉永小百合を演じていたが、それにとどまらず、この映画も吉永小百合の映画になってしまっていた。

これはもう、「男はつらいよ」ではない。吉永小百合の映画に、フーテンの寅が友情出演しているかのようなのだ。

どうして、こんな奇跡のようなことが起きるのだろうか。

この映画に出演した時の吉永小百合は、絶頂期だと断言できる。

幼すぎず、大人になりすぎておらず、異様なまでの美しい光を孕み、その光を音もなく発していて、現実の女性とは思えないまでの神々しさを放っているのだ。

神の領域というと大げさだろうか。

宗教画の一場面を見るかのような気持ちで、吉永小百合の姿を私は見ていた。

聖母や生き仏を想わせる女性は、昔は現実にも存在したが、今となっては、映画の中にいる吉永小百合くらいのものではないだろうか。

こんなふうに映画を偏った見方をしたのは、おそらくは初めてである。

映画鑑賞という行為が、まともに機能しないくらい、吉永小百合という女性は特別であり、多大な影響力を持つ。

ここまでくると、もはや、演技力などは問題ではない。

吉永小百合という存在を、そして、その絶頂期を、この「男はつらいよ 寅次郎恋やつれ」で目の当たりにできることは、私たち日本人にとって幸福なことだと思うのである。

それにしても、最後まで見るのが息苦しいほど、今回の吉永小百合は美し過ぎた。

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