1/4の奇跡~本当のことだから~」という映画をご存じだろうか。

 

この映画の主人公である山元加津子さんは、特別支援学校(養護学校)の教諭を30年以上つとめた方である。

 

「1/4の奇跡~本当のことだから~」は、自主制作映画であり、自主上映映画だったが、現在は、インターネットで鑑賞できる。

 

⇒「1/4の奇跡~本当のことだから~」のネットでの鑑賞はこちらへ

 

まずは個人的な印象から

 

私個人としては好きな映画で、特にラスト5分間は私にとって「ツボ」となっている。

 

私はこの映画の音楽は(ごく自然にお気に入りという意味で)好みだが、この映画は音楽が生命線となっていることに、ある時、ふと気づいた。ヴォーカルを含め、この音楽が合わないという人は苦しいかもしれない。

 

音楽の話はともかく、全くもって、私はこの映画に関しては、ミーハーな愛好家だ。あまり深く分析とかはしていないし、映画中で語られる「1/4の理論」が正当か否かにも興味がない。

 

「すべて大丈夫」という究極の人生肯定を、訴えることがこの映画のテーマであり、そのメッセージを充足させる材料の集まりがドキュメントとなっている。

 

「すべて大丈夫」というメッセージは、制作者の確固たる信念というよりも、映画中に登場される中山靖雄氏のいう「声かけ」としての言葉であり、「祈り」なのだ。

 

中山靖雄氏の著書について動画で語らせていただきました。

 

だから、「すべて大丈夫」という言葉の論理的な整合性に言及するのは、その人の自由だが、映画の意図とはずれてしまうことになる。

 

繰り返す。「すべて大丈夫」は「声かけ」であり「祈り」であり、教義として、唯一無二の真実として視聴者に押し付けているのでもない。

 

だとすると、この映画はたいへんインパクトがあり、際立っている「1/4の奇跡」というタイトルは誤解(反発)を招きかねないという視点からすれば、以下のように変更すべきかもしれない。

 

Everything is ok!(すべて大丈夫)

 

これでは、意外性も衝撃度も弱く、集客的に難しいのだろうか……

 

衝撃と感動。でも、謎の不安が消えない…

 

どうした経緯でこの映画に出逢ったのか、想い出せないし、いまだにわからない。

 

そもそも、このドキュメンタリー映画の主人公である、山元加津子さんについて、私は何も知らなかった。

 

山元加津子さんの存在を知ってから、なぜか私は、風花塾の塾生のTさんに電話していた。彼女は自己啓発の世界を追求していた人である。Tさんも、山元加津子さんについて全く知識を持っていなかった。

 

養護学校(特別支援学校)の教諭であることはおろか、名前すら知らなかったのである。

 

私は映画作品「1/4の奇跡~本当のことだから~」を絶賛したい気持ちを抑えかねていたのだ。

 

この胸のときめきを、映画評論家としてではなく、ミーハーな愛好家として伝えたかった。

 

その一方で、どこかこの映画を絶賛してはいけないかもしれない、という不安のような感情があったことも確かだ。

 

私の姉は長い間、保育園につとめていた。だが、その姉でさえも山元加津子さんを知らなかった。

 

ねむの木学園」を取材したことがある、姉も全く知らないのはなぜだろうか。

 

ネットで検索すると、ものすごく有名なように感じるが、実は一般の人には案外知られていないのかもしれない。

 

私は映画評論家に負けないくらい、古今東西の名画を深読みしてきた人間である。

 

だから、「1/4の奇跡~本当のことだから~」の映画としての技術水準と完成度は十二分に承知している。

 

だが、なぜか、この映画に感動しているのだ。私の場合は、特にラストの5分になぜかハマってしまっていた。エンディングテーマ曲を繰り返し聴いていたのである。完璧なミーハーとして……(苦笑)

 

無性に、理由などどうでもよく、理屈を度返しにしていい、純朴な感動に飢えていたのだろうか。

 

少し時間が経過しているので、なぜ私がこの映画に心を揺すぶれたのか、その理由は判然としてきている。

 

たった一つのテーマ。それだけのためにある映画

 

笹田雪絵ちゃんという少女をはじめ、この映画に出てくる人間は、例外なく自己肯定を成し遂げている。

 

特に、命がけで自己肯定の境地に達した(絶対化した)雪絵ちゃんの詩は、感動を禁じえない。

 

雪絵ちゃんは、すでに天国に召されたことを視聴者は知っているので、余計に涙を誘うのだ。

 

まだ生臭い現生で暮らしている、山元加津子さんも、「人間の命は素晴らしい」と笹田雪絵ちゃんを絶賛する。

 

なぜ、映画監督の入江富美子さんは、ここまで人生肯定の達人たちをキャストとして集合させたのか。

 

理由は明らかだ。

 

実は、現実は一つ間違えば闇に閉ざされてしまうのだ。ロックされ身動きもできない地獄に監禁されてしまうこともある。人の心にはどうすることもできない哀しみがあって消えることはない。

 

そういう絶望感を胸に深くおさめているからこそ、入江富美子さんは、人生を肯定することで、闇を光に、絶望を希望に変えたいと決意した。

 

そして、その自己肯定感は実感になった。

 

実感となった自己肯定感を永遠に定着するためには、映画という御伽噺を必要とし、1ミリも疑念が入り込みようがない、絶対的な肯定感の世界を構築しようとしたのだ。

 

その決意の結晶、あるいは実感の昇華が、この映画「1/4の奇跡~本当のことだから~」なのである。

 

この映画が成功したのは、未完成だから

 

そここに見られる技術的な稚拙さ、論理の飛躍と説明過多は、普通なら作品としての致命傷となりかねない。

 

しかし、この世の闇を光に、絶望を希望に、哀しみを歓びに変換したいという、透徹した希求が、人の胸を打つ。

 

いや、むしろ、この映画の未完成かげんが、奏功した。功を奏した。

 

この映画の最大の美点は、純度の高さだ。技術的な高さでも、作品としての完成度でもない。

 

映画に関わった人たちの純粋な思いこどが、魅力の自主映画なのである。

 

逆に言えば、ただ「純度だけが命」の映画でしかない。

 

この純度は脆く、壊れやすい。この純度が失われた時、感動も色あせてしまう。

 

人は美は瞬く間に消え去り、花はすぐにしぼんでしまうことを知っている。

 

そうした、ガラス細工のような壊れやすさを、この映画に私は今も感じている。

 

確かにこの映画「1/4の奇跡~本当のことだから~」には「神」が感じられる。神がこの映画に降りてきている。

 

なぜか、映画が芸術として、ドキュメンタリーとして傑出しているからではない。

 

制作スタッフの魂が、動機と主題が、神を呼ぶほどに純粋だったからです。

 

だとすると、その純粋な魂に、今後、一点の曇りが出たら、神は離れてゆくということだ。

 

それが、私が危ういと感じる点である。

 

この映画は、信じた者にとっては珠玉だが、信じなかった物にとってはただの石くれに過ぎない。

 

肝に銘じなければいけないのは、この映画は完成されてはいないということだ。

 

明日のためにある映画

 

映画を観る人たちに、この世の闇を光に、絶望を希望に、哀しみを歓びに変換したいという祈りのバトンを手渡したに過ぎない。

 

多くの魅力ある作品がそうであるように、この映画も、大いなる練習曲なのだ。

 

一寸先は闇であり、一寸先は光である。

 

この映画のテーマと価値は、見る側に委ねられているのだ。

 

大切なのは、映画を観た人たちのこれからの生き方なのである。

 

号泣し、大感動し、絶賛し、疑いを排して信じてもかまわない。

 

しかし、大事なのは、次のステップだと私は感じている。

 

ギリギリの選択を、この映画は強いているのかもしれない。

 

光に向かうか、闇に吸われるか。

 

この映画内で語られた、有識者の見解も、宇宙の法則なるものも、今の私にはあまり興味がない。

 

命の讃美、自己肯定へ果てしのない希求(祈り)には、人に希望させ、生きさせる力がある。

 

その方向にある光に向かって歩み始めましょう、というメッセージを私はこの映画から受け取った。そのことは間違いないし、それだけを信じていればいい。

 

命の鼓動(温もり)を確かに感じる時、人は祝福されて、そこにある。明日には光が見える。

 

「自分らしく未来へ」、そう、私は私自身に、囁きかけたい。

 

最後に申し上げるが、この映画「1/4の奇跡~本当のことだから~」は完成された芸術作品ではない。未完成な(まだふぞろいの)命の合唱、あるいは練習曲であり、序曲に過ぎない。

 

映画自体に、絶対的な価値もありはしない。またこの映画が希望なのでもない。この映画を観て、バトンを受取って、明るい未来を希求する人々こそが「価値」であり「希望」なのである。

 

私の中では、この映画のタイトルは、以下のように変更している。

 

「微笑みのエチュード~希望への静かなる祈り」