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新川和江の詩「わたしを束ねないで」の全文とレビュー

新川和江(しんかわかずえ)の「わたしを束ねないで」というをご紹介します。

 

わたしを束ねないで

 

わたしをたばねないで

あらせいとうの花のように

白いねぎのように

束ねないでください わたしは稲穂

秋 大地が胸を焦がす

見渡すかぎりの金色こんじきの稲穂

 

わたしをめないで

標本箱の昆虫のように

高原からきた絵葉書のように

止めないでください わたしは羽撃はばた

こやみなく空のひろさをかいさぐっている

目には見えないつばさの音

 

わたしをがないで

日常性に薄められた牛乳のように

ぬるい酒のように

注がないでください わたしは海

夜 とほうもなく満ちてくる

苦いうしお ふちのない水

 

わたしを名付けないで

娘という名 妻という名

重々しい母という名でしつらえた座に

すわりきりにさせないでください わたしは風

りんごの木と

泉のありかを知っている風

 

わたしを区切らないで

コンマピリオドいくつかの段落

そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには

こまめにけりをつけないでください わたしは終わりのない文章

川と同じに

はてしなく流れていく ひろがっていく 一行の詩

 

いろいろ感想を書く前に言っておきたいのは、新川和江の「わたしを束ねないで」は良い詩だということ。

 

以下、なぜ、どこが「良い」のかについて書いてみます。

 

人間にとって重要なキーワードを、わかりやすく、まろやかにに表現

 

自由、基本的人権、多様性、人間の解放などというと、理屈っぽくて、政治用語のようで、なじみにくい。

 

けれど、新川和江の「束ねないでください」は、そうした「人が人らしく」「自分が自分らしく」生きるための基礎用語を、やらかな光に満ちた言葉の連なりに、変換してくれています。

 

概念語が「さなぎ」なら、新川和江の詩は「蝶」です。

 

反抗の歌を、何の力みもなく、あくまで優しく瑞々しい言葉で表現

 

考えてみれば、世の中には、自分が自分らしく、人が人らしく生きることを邪魔するものが多すぎますよね。

 

何とか、人を鋳型にはめ、上下関係をつくり、可能性をつみとり、人を人ではないものに変えようとしてくる。

 

だとすると、自然体で暮らすってことは、大変なんですよね。

 

デモ行進みたいに、意図して、反抗しないと、自分の人生を自分の人生ではないものにされてしまいます。

 

その意味から「わたしを束ねないで」を、反抗の歌ととらえると見えてくるものがあります。

 

反抗をテーマにしながら、握りこぶしを天に向かって突き上げるといった、力みや気負いは微塵もなく、あくまで優しく、やわらかな口調で言葉を発する。

 

「わたしを束ねないで」という詩は、人らしく、自分らし暮らすための教科書なのですが、栄養豊かで美味しいソフトドリンクのように、味わえるのです。

 

変化にとんだ比喩があざやか。肯定感につらぬかれた言葉の祝祭

 

新川和江という詩人は、言葉を飾りますね、やりすぎになるギリギリまで、どんよくに言葉の祝祭を繰り広げてくれます。

 

これ以上、言葉を装飾すると、詩としてのクオリティが下がってしまうのですが、限界まで言葉を誇らかにデコレーションしている。

 

言葉の装飾が嫌味にならないのは、詩の内容が誠実だからです。

 

晴れやかで、あかるく、のびのびとした、自己肯定感を、豊富な比喩を駆使することで香高く表現。

 

その言葉づかいは、切実な祈りではなく、誇らかなダンス(舞踏)であり、優雅な祭典となっています。

 

言葉の祝祭として成功した詩は珍しく、その意味でも貴重だと言えるでしょう。

 

自己肯定感に貫かれた言葉の祝祭、それが「わたしを束ねないで」なのです。

 

新川和江のプロフィール

 

新川和江は、1929年、茨城県結城(ゆうき)生。詩人。

 

小学校のころより野口雨情などの童謡に親しみ、定型詩などを作る文学少女だった。女学校在学中、近くに疎開してきた詩人の西條八十に詩の手ほどきを受けた。

 

卒業して17歳で新川淳と結婚後、上京し、詩の投稿を始める。

 

1953年、最初の詩集『睡り椅子』を刊行。新鮮で自由な感覚で、母性愛や男女のさまざまな愛の姿をうたう。巧みに使われる比喩表現が特徴。

 

1983年、女性のための季刊詩誌「現代詩ラ・メール」を吉原幸子と共に創刊。1993年の終刊まで女性詩人の活動を支援した。輩出したラ・メール新人賞の受賞者には鈴木ユリイカ、小池昌代、岬多可子、高塚かず子、宮尾節子らがいる。

 

詩集に『ローマの秋・その他』(室生犀星詩人賞)、『ひきわり麦抄』(現代詩人賞)、『はたはたと頁がめくれ…』(藤村記念歴程賞)、『記憶する水』(現代詩花椿賞、丸山薫賞)など。

 

『千度呼べば』に収められた「ひといろ足りない虹のように」をはじめ、多くの詩に曲が作られ、愛唱されている。

 

飯沼信義「うつくしい鐘が…」や鈴木輝昭「良寛」のように、作曲家のために詩を書き下ろしたものも少なくない。

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室生犀星の詩「きょうという日」

室生犀星に「きょうという日」があります。さっそく、全文を引用してみましょう。

 

きょうという日

 

時計でも

十二時を打つとき

おしまいの鐘をよくきくと、

とても 大きく打つ、

きょうのおわかれにね、

きょうがもう帰って来ないために、

きょうが地球の上にもうなくなり、
ほかの無くなった日にまぎれ込んで

なんでもない日になって行くからだ、

茫々何千年の歳月に連れこまれるのだ、

きょうという日、

そんな日があったか知らと、

どんなにきょうが華かな日であっても、

人びとはそう言ってわすれて行く、

きょうの去るのを停めることが出来ない、

きょう一日だけでも好く生きなければならない。

 

室生犀星は、どのような気持ちで、この「きょうという日」を書いたのだろうか。

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谷川俊太郎の詩「ゆうぐれ」

谷川俊太郎の「ゆうぐれ」というをご紹介します。

 

【動画】(詩の朗読と鑑賞)谷川俊太郎「ゆうぐれ」

 

ゆうぐれ

 

ゆうがた うちへかえると

とぐちで おやじがしんでいた

めずらしいこともあるものだ とおもって

おやじをまたいで なかへはいると

だいどころで おふくろがしんでいた

ガスレンジのひが つけっぱなしだったから

ひをけして シチューのあじみをした

このちょうしでは

あにきもしんでいるに ちがいない

あんのじょう ふろばであにきはしんでいた

となりのこどもが うそなきをしている

そばやのバイクの ブレーキがきしむ

いつもとかわらぬ ゆうぐれである

あしたが なんのやくにもたたぬような

 

これは、ブラックユーモアか?

 

それとも、ホラー?

 

いやいや、単なる悪ふざけだろう。

 

これは、夢の描写かもしれない。そういえば、かつて私は、こんな夢を見たような気もする……。

 

というふうに、この詩「ゆうぐれ」から、さまざまな思いが広がってゆく。

 

「遠い感じ」「無感覚」「空っぽ」など、日常生活の中では、いつはまりこんでもおかしくないほど、常に日常生活と同居している状態である。

 

人生での最大の事件は「生まれること」と「死ぬこと」だ。

 

この「ゆうぐれ」において「死」は究極まで軽く扱われている。それは同時に「生」の軽視につながる。

 

この出口のない、夢のような空虚さから逃れる術は一つしかない。

 

それは、夢から覚めることだ。

 

だが、いちばん恐ろしいのは、夢から覚めた時、今度は自分自身の死体を見てしまうことではないのか。

 

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