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三船敏郎が主演した「侍」は、時代劇史上に屹立する傑作。

三船敏郎が出演した時代劇というと、黒澤明の「用心棒」と「椿三十郎」を思い浮かべる人が多いと思う。

 

だが実は、忘れてはならない、三船敏郎が主演した傑作時代劇がある。それが「」である。 この記事の続きを読む

室生犀星の詩「子守歌」


今回は室生犀星の「子守歌」という詩をご紹介。

 

子守歌

 

ゆきが降ると 子守歌が聴こえる

これは永い間のわたしのならわしだ

窓から戸口(とぐち)から

空から

子もりうたがきこえる。

だがわたしは子もりうたを聞いたことがない

母というものを子供のときにしらないわたしに

そういう唄の記憶があろうとは思えない。

だが不思議に

雪のふる日は聴える

どこできいたこともない唄がきこえる。

 

室生犀星の詩「子守歌」の朗読はこちらに

 

良い詩ですね。

 

人の共通する遺伝子というか、誰もの心に刻まれている記憶のスイッチを入れてくれるのも、詩の大きな効用です。

 

聴いたこともない子守歌が聴こえるのは、当然でしょう。

 

私たち人間には、いろんな歌の記憶が生まれながらに組み込まれているのだから。

 

経験とか、体験とかではなく、最初から人は何もかもを知っている、と言ったのは山元加津子さんです。

 

特別支援学校(養護学校)の子供たちの中には、重い障害を持った子もいます。そういう子供たちと親身に触れ合ってきた山元加津子さんは、子供は教えなくても、最初から知っていることがたくさんある、という体験をされた、と講演会で話されています。

 

手毬唄などの童歌(わらべうた)も良いですね。子守歌はなお良いかもしれない。なぜなら、母親の子供への愛情が込められているから。

 

幸いなことに、私は幼い頃、手毬唄や子守歌を聴いたことがあります。

 

学校で習ったとかではなくて、日常生活の中で、ふつうに聴けたのです。実際に、澄んだ声で歌を唄いながら毬つきをして遊んでいる子が近所にいました。

 

また、夕暮れ時、若いお母さんが赤ちゃんを抱きながら、体を静かにゆっくりと揺すりながら、子守歌を唄っていたのを、何回か見たことがあります。

 

真綿に優しく包まれるかのような、囁きにも似た子守歌を、澄み切った歌声を、私は幼少期に生で聴くことができたのです。

 

本当に、本当に、尊い経験ができたと、今になって、しみじみ思うのです。

 

室生犀星は「雪のふる日」と歌っていますが、確かに、雪は私たちを別世界に連れて行ってくれますから、ふだん忘れていた大切なことに出逢えやすい。

 

別世界の方が、本当の世界かもしれませんが。懐かしい、静かで温かい、見えるもの、聴こえること、すべてが手触りで感じられる世界に、「雪のふる日」には行けるのですから……。

田村隆一の詩「木」

今回は田村隆一の「」をご紹介。

 

 

木は黙っているから好きだ

木は歩いたり走ったりしないから好きだ

 

ほんとうにそうか

ほんとうにそうなのか

 

見る人が見たら

木は囁いているのだ ゆったりと静かな声で

木は歩いているのだ 空に向かって

木は稲妻のごとく走っているのだ 地の下へ

 

木はたしかにわめかないが

木は

愛そのものだ それでなかったら小鳥が飛んできて

枝にとまるはずがない

正義そのものだ それでなかったら地下水を根から吸いあげて

空にかえすはずがない

 

若木(わかぎ)

老樹(ろうじゅ)

 

ひとつとして同じ木がない

ひとつとして同じ星の光のなかで

目ざめている木はない

 

ぼくはきみのことが大好きだ

 

田村 隆一(たむら りゅういち)。1923年(大正12年)3月18日 に生まれ、1998年(平成10年)8月26日)に死去。日本の詩人、随筆家、翻訳家。詩誌『荒地』の創設に参加し、戦後詩に大きな影響を与えたと伝えられている。

 

田村隆一という名前は知っているが、詩集は読んだことがない。ウィキペディアで調べたら、ものすごい数の詩集を出版されているので、驚いた。

 

私がこのブログ「美しい詩」で紹介している詩人の多くは、生前に詩集を出版できていないか、せいぜい一冊か二冊を刊行しているに過ぎない。

 

しかし、田村隆一は75歳で没するまで、膨大な量の詩集や著書を出版している。

 

一言でいうと、戦前と戦後は時代が違うのである。戦後は出版業界がマスコミの発達とともに隆盛し、文章を書いて生活できる人の数が増えたのである。

 

私が戦後の詩、いわゆる現代詩に興味が湧かなかったのは、詩人とは短い生涯において、ぎりぎりまで自分の命の火を燃やし尽くした人のことを指すと自分の中で決めていたからだ。

 

今となっては、それは余りにも狭い決めつけだと反省しているが、今後、戦後の詩、現代詩を読む気はさらさらない、と言ったら言い過ぎだが、気は進まないのは確かだ。

 

ただ、今回ご紹介した田村隆一の「木」という詩は、難解な言葉を使っていないという点では評価できる。

 

だが、自分の命を燃やしている、その証明の詩ではないことは明らかだ。

 

むしろ、言葉遊びに近いだろう。

 

その言葉「遊び」が、人間の愚かさ、樹木の偉大さを、嫌味なく、素直に浮かび上がらせている。

 

冷ややかに、皮肉っぽく、田村隆一の詩「木」について書いたのだが、もう一度読み返してみると、実に「うまい」ことに感心した。高く評価されているのにも肯ける。

 

戦後の詩を代表する詩人だと伝えられる人が(戦後の詩は観念的で難解だと多くの人が先入観を持っているのに)、こういう簡明な詩も書いているのを知ることは有益だろう。

 

さらに驚いたことがある。この田村隆一の「木」について感想を述べたページにたくさん読者さんが訪問しているのだ。これほどまでに読んでもらえるのなら、最初からもっと力を入れて記事を書けば良かったと後悔している。

 

以下は、追記である。

 

「木」について、田村隆一のような感じ方をしてくれた人がいて、その感じ方を詩にしてくれたので、「木」の大切さを共有できているのは素晴らしいと素直に思う。

 

戦後日本は奇跡の高度経済成長を遂げた。そして私たち現代人は今、高度な便利社会に暮らしている。

 

戦後75年以上の歳月が流れ、私たちはどれほど多くの尊いものをうしなってきただろうか。

 

失った尊いものの一つが、実は樹木である。開発の名のもとに、人間は無茶苦茶に森を破壊し、木々を抹殺し続けてきた。

 

木にしかない、清々しさ、凛とした姿、神々しい気配、心の奥にまで沁みる葉擦れの音を、愚かな人間たちは葬り去ってきた。

 

人間たちよ、もうやめろ、木を殺すのを。

 

木の持つ霊気を尊べ。

 

私たちは木に対して謙虚になることで、人間らしい人間に戻れるかもしれないのだ。

 

「木」を題材にして詩を書いている詩人が他にもいる。当ブログでは、以下の詩を取り上げているので、ご高覧いただきたい。

 

 

 

日本の名作詩を集めてみましたので、ぜひとも、ご確認くださいm(__)m

日本の名作詩ベスト100

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