高村光太郎

高村光太郎の詩「ぼろぼろな駝鳥」を読み継いでゆきたい理由。

高村光太郎(たかむらこうたろう)の詩ぼろぼろな駝鳥」をご存知の方の多くは、教科書になっていたことに起因するのではないでしょうか。

実は、私もそうです。

現在、教科書問題がしばしば話題にのぼりますが、多くの場合、歴史についてですよね。

私個人としては、教科書に載っていた文学作品には満足しています。一生、愛で続けられる名作を教科書によって知ることができたから。

一生、愛で続けられる名作、その一つが高村光太郎の詩「ぼろぼろな駝鳥」なのです。

さっそく、「ぼろぼろな駝鳥」の全文を引用してみましょう。

ぼろぼろな駝鳥

何が面白くて駝鳥を飼うのだ。

動物園の四坪半のぬかるみのなかでは、

脚が大股すぎるぢゃないか。

頚(くび)があんまり長すぎるぢゃないか。

雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢゃないか。

腹がへるから堅パンも喰らふだらうが、

駝鳥の眼は遠くばかりみてゐるぢゃないか。

身も世もない様に燃えてゐるぢゃないか。

瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢゃないか。

あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいてゐるじゃないか。

これはもう駝鳥ぢゃないぢゃないか。

人間よ、

もう止せ、こんな事は。

高村光太郎の詩といいますと、「智恵子抄」を想いうかべる人が多いでしょうね。

しかし、高村光太郎の詩の中には「猛獣篇」と呼ばれる連作詩があります。動物を題材にしている点で、極めてユニークです。

「猛獣篇」の中には「ぼろぼろな駝鳥」のほかに、「清廉」「白熊」「鯰」「象の銀行」「苛察」「雷獣」などの名作があります。

さて、「ぼろぼろな駝鳥」は、数多い高村光太郎の詩の中でも、極めてユニークです。

というか、日本の近代詩、現代詩の全作品の中でも異彩を放っています。

「ぼろぼらな駝鳥」の最大の特徴は、高村光太郎自身の怒りをストレートにぶつけていることです。

また、「ぢゃないか」という言葉の繰り返しが大きな特徴となっています。

感情を赤裸々にぶつけてたり、同じ言葉を繰り返しすぎたりしたら、詩としての成立すら危なくなることぐらいは、高村光太郎は気づいていたでしょう。

それなのに、あえて、これまでの詩人が誰もやらなかったし、今後もやらないであろうことを高村光太郎はやらなければならなかったのか?

高村光太郎の生き方の根底には、文明社会への批判が脈打っています。

高村光太郎は、彫刻家であり、ロダンの影響を色濃く受けていますので、人間の生命の原初的な輝きを賛美したい気持ちが強かったと容易に想像できます。

高村光太郎の人生肯定的な生きざまは、ロダンの影響が大きいことは間違いありません。

「無条件の生命賛美」は、社会に目を向ければ、近代合理主義の否定であり、文明社会に対する反発となるわけです。

「ぼろぼろな駝鳥」は、高村光太郎の根本姿勢である、生命賛美と文明社会批判が色濃く出ています。

ただそれだけならば、名作足り得ません。

どうして「ぼろぼろな駝鳥」が名作となったのか?

それは、高村光太郎が、詩の技法としてはあり得ない、「怒り」という感情を愚直なまでに爆発させたこと、それが「ぼろぼろな駝鳥」という型破りの詩を名作足らしめたのであります。

高村光太郎は動物愛護の視点から怒っているのではなく、人間どもの欺瞞に満ちた「ぶざまな生きざま」に対して猛烈に怒っているのです。

当然、その怒りは、自分自身にも向けられます。怒りが自分に向けられているから、「ぼろぼろな駝鳥」が薄っぺらなヒューマニズムに堕すことなく、永遠に人々の胸を打ち続けるのでしょう。

詩人の草野心平は、高村光太郎に直接、最後の「人間よ、もう止せ、こんな事は」は削除すべきだと意見したそうです。

でも、高村光太郎は、最後のこの2行を消すことはありませんでした。

詩としての完成度を危惧しての進言という点では、草野心平の意見は妥当かもしれません。

しかし、やはり最後の2行がなければ、高村光太郎の中では「ぼろぼろな駝鳥」という詩は成立しなくなってしまうと判断したために、草野心平の意見を拒否したのでしょう。

「ぼろぼろな駝鳥」は、詩としての形式美、抑制による均衡、品格などを犠牲にしても、心情を激しく爆発させたい時は、優れた詩人にも、一生に一度ではあるけれども訪れたという事件だったと思うのです。

怒りをぶつける詩を、高村光太郎は「ぼろぼろな駝鳥」以外には書いておりません。高村光太郎の詩のほとんどは、冷静かつ抑制された筆致で書かれています。

「ぼろぼろな駝鳥」だけが、特異なのです。

そのことは「ぼろぼろな駝鳥」を書いた時に、高村光太郎の心情がいかに激しかったか、激情をぶつけなければ自分の存在が危なくなるほどの切迫感を覚えていたことの証明ではないでしょうか。

「人間よ、もう止せ、こんな事は」という最後の2行を書かなければ、高村光太郎自身が壊れてしまったかもしれない、とさえ私には思えてくるのです。

高村光太郎の人と生涯

これまで高村光太郎の詩を何篇か紹介してきましたが、高村光太郎の生涯については触れていませんでした。

ですから、今回は、簡単ではありますが、高村光太郎のプロフィールをご紹介いたします。

高村光太郎は1883年(明治16年)に生まれ、1956年(昭和31年)に73歳で死去。

詩人として最も有名ですが、評論、随筆にも優れた作品があります。彫刻家としての作品は多くはありませんが、日本近代彫刻史を語る上で、高村光太郎を除外することはできないでしょう。

私自身も、若い頃、詩を書き、彫刻家を目指した時期があったので、高村光太郎からは大きな影響を受けました。

高村光太郎の生涯を語る上で、極めて重要となるのが、智恵子の存在です。

1914年、長沼千恵子と結婚。智恵子は後に統合失調症を発症。

高村光太郎は智恵子を深く愛し続け、智恵子を題材にして詩を多数創作。後に、智恵子を題材にした詩を集めて「智恵子抄」を出版しました。

「智恵子抄」は、妻である智恵子を題材にした、愛と苦悩の詩集です。「智恵子抄」は、日本だけでなく、全世界の詩史の中でも、極めて特異な輝きを放っています。

高村光太郎の3つの魅力

高村光太郎の魅力は、以下の3つの魅力に集約されと私は思っています。

1)智恵子への愛

2)人生肯定と生命賛美

3)求道精神

高村光太郎が現代でも広く支持される理由は、愛の詩人であるだけでなく、人生を深く肯定する心の温かさ、厳しい自己鍛錬による求道精神にあるのではないでしょうか。

これからも、当ブログでは、高村光太郎の詩をご紹介してまいりますので、ご期待ください。

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