今回は伊良子清白いらこ せいはく)の代表作であり、日本近代詩に残る名作詩として名高い「漂泊」という詩をご紹介します。

 

故郷(ふるさと)の

谷間の歌は

続きつゝ断えつゝ哀し

大空の返響(こだま)の音(おと)と

地の底のうめきの声と

交りて調は深し

 

いかがだろうか。上記の詩は、鳥取県八頭郡河原町曳田「正法寺」に建てられた詩碑に刻まれている。

 

実は、上記の六行は、詩の一部なのである。ハッとした。何と、これだけで完成している、立派な独立した詩ではないか。

 

今、詩の一部と申し上げたが、その詩こそが「漂白」なのである。

 

私は、ひょっとして、「漂白」という詩を読み間違えていたのではないか、と直観し、本棚にあるはずの伊良子清白の詩集「孔雀船」を探した。

探し当てた詩集「孔雀船」を開くと、不思議なことに、開いたページに「漂白」が載っていた。

 

さっそく「漂白」の全文をご紹介しよう。

 

漂泊

 

蓆戸(むしろど)に
秋風吹いて
河添(かはぞひ)の旅籠屋(はたごや)さびし
哀れなる旅の男は
夕暮の空を眺めて
いと低く歌ひはじめぬ

 

亡母(なきはゝ)は
処女(をとめ)と成りて
白き額月(ぬかつき)に現はれ
亡父(なきちゝ)は
童子(わらは)と成りて
円(まろ)き肩銀河を渡る

 

柳洩る
夜の河白く
河越えて煙(けぶり)の小野に
かすかなる笛の音(ね)ありて
旅人の胸に触れたり

 

故郷(ふるさと)の
谷間の歌は
続きつゝ断えつゝ哀し
大空の返響(こだま)の音(おと)と
地の底のうめきの声と
交りて調は深し

 

旅人に
母はやどりぬ
若人(わかびと)に
父は降(くだ)れり
小野の笛煙の中に

 

旅人は
歌ひ続けぬ
嬰子(みどりご)の昔にかへり
微笑(ほゝゑ)みて歌ひつゝあり

 

私の胸騒ぎは、的中した。

 

やはり、この「漂白」は、導入部の第一連を除く、その他の五連は、独立した五つの詩として読んだほうが良いのだと気づいた。

 

連と連をつなげて読もうとすると、無理がある。

 

単純に考えればいい、一篇の詩の中に五篇の優れた詩が入っている、これは実においしいではないか、と。

 

そう思って、一連一連を味わうと、この「漂白」は一連一連を独立した作品として読まないと、詩としては失敗作と断定しかねないと気づいた。

 

最初にこの「漂白」を読んだ時、次のようなことを想った。

 

有名な詩だが、この詩、本当に名作なのか? 一連一連がバラバラで、全体として何を言いたいのか把握しにくい、部分的には惹かれるフレーズはあるものの、最初から最後まで流れるように展開し、一つの想念を宇宙のように現れるようでなければ、優れた詩と言えないのではないか

 

だから、今日まで感想すら書けないできたのだ。

 

しかし、しかし、である。

 

一連一連を独立させて、読むと、実に素晴らしいのだ。一つの宇宙が現れ、単なる旅情を歌った詩ではないことに思い至った。

 

ただ、全体を一篇の詩として読むと、単なる旅情と郷愁の歌になってしまう。実に奇妙な詩である。

 

やはり、この詩を鑑賞するには、伊良子清白の生涯を知っておくべきかもしれない。

 

伊良子清白のプロフィール

 

伊良子 清白(いらこ せいはく)は、1877年(明治10年)10月4日に生まれ、1946年(昭和21年)1月10日)に死去した、日本の詩人。

 

医業のかたわら詩を書き、詩集『孔雀船』を出版し河井醉茗、横瀬夜雨と並ぶ文庫派の代表的詩人。

 

明治39(1906)年には作品18篇を納めた詩集「孔雀船」を発表したが、刊行の直前に東京を離れ、島根・大分・台湾・京都などで医業に専念し。大正11(1922)年には三重県鳥羽市で開業した。

 

文壇を離れた清白は、一時期は行方不明といわれるほど漂泊と隠遁の日々を送った。

 

その後、「孔雀船」の評価が高まり、清白は再び詩壇に復帰。短歌雑誌「白鳥」を刊行し、三重歌壇の指導者としても活躍した。

 

要するに、伊良子清白は、医者であり、旅人であり、詩人であった、人生の漂泊者と言えそうだ。

 

伊良子清白の「漂白」は、天と地の壮大な響き合いである。

 

改めて「漂白」だけでなく、詩集「孔雀船」に収められた詩を読み返してみた。

 

今年は、2021年だが、例えば二十代の人たちが、伊良子清白の詩を読んで感動するだろうか?

 

かなり、難しいと感じた。

 

島崎藤村にある技巧の洗練がない。三好達治にある流麗な旋律がない。

 

七五調を基調として、形式を整えようとしているが、伊良子清白の詩は、リズミカルでも心地よい流れがあるわけでもない。

 

要するに、詩的な言葉を駆使してはいるが、詩作品として完成しているとは言い難い。

 

私は伊良子清白の世界を否定しようとしているのではない。

 

名作として名高い「漂白」も、どこか習作の匂いがする。音楽で言えば練習曲だ。

 

ところどころ、ハッとするような音符の組み合わせが見えるのに、全体として聴衆を酔わせる楽曲に仕上がっていない。

 

青春期に「漂白」に触れ、郷愁を抱いている人には申し訳ないが、「漂白」は名作ではない。

 

旅の情緒、父母の思慕、遠い郷愁などを主テーマとするなら、形態も音律も、もっと心地よい和音を奏でていなければならない。

 

しかし、未完成だが、はじめに引用した詩碑に刻まれた一連にある「何か」は捨てがたい。

 

他の詩人にはない「何か」がある。

 

壮大で普遍的で、深く気高く、天と地が響き合っているような独特のエナジーを感じる。

 

それこそが、伊良子清白の真の魅力だと言いたい。

 

七五調の古風な旅の歌をつづった詩人ではなく、胸に抱いていたものを完全な形では定着できなかったが、現代人が今最も欲しているであろう「何か」を伝えている詩人である。

 

その意味から私は「漂白」というタイトルを「表白」と改題したいくらいなのだ。