三好達治のプロフィール。戦前・戦中・戦後を生きぬいて…
三好 達治(みよし たつじ)は、1900年(明治33年)8月23日に生まれ、1964年(昭和39年)4月5日に死去。大阪府大阪市出身の詩人、翻訳家、文芸評論家。63歳で没。
63年の生涯は現在の日本人の平均寿命からみると、「まだ若いのに、もったいない」と惜しまれることだろう。
しかし、日本近代詩人の中には30歳前後までに亡くなっている、いわゆる「夭折の詩人」が少なくない。
中原中也、立原道造、八木重吉、金子みすゞなどの名前はすぐに浮かんでくる。
そう考えると、三好達治は長く生きた詩人なのである。
しかし、数多くの詩集を発表した三好達治だが、1930年に刊行した処女詩集「測量船」が、最も優れていると私は思っている。
つまり、30歳の時に発表した詩集が、三好達治の最高峰だったのだ。
だとすれば、詩作のピークは、夭折の詩人たちと変わらないということになるのだが……。
それはさておき、長く生きた詩人という視点で、三好達治と、萩原朔太郎、高村光太郎を比較してみると興味深い。
死去した年を赤字で強調しておく。
高村光太郎(たかむら こうたろう、1883年(明治16年)3月13日に生まれ、1956年(昭和31年)4月2日に死去。73歳で没。
萩原朔太郎(はぎわら さくたろう)は、1886年(明治19年)11月1日 に生まれ、1942年(昭和17年)5月11日に死去。55歳で没。
三好達治(みよし たつじ)は、1900年(明治33年)8月23日に生まれ、1964年(昭和39年)4月5日に死去。63歳で没。
注目すべきは、萩原朔太郎は戦中に亡くなっており、三好達治と高村光太郎は、戦前・戦中・戦後を生きぬいていることだ。
三好と高村は、日本の勝利や日本の国家国民を賞賛称揚する「戦争詩」を書いた。実際には「書かされた」のだろう。
いずれにせよ、二人が戦争を賛美したはずはなく、戦後、国威発揚の詩を書いたことが「心の深い傷」となり、三好と高村を苦しめたことは間違いないのである。
Wikipediaから、三好と高村がどのように戦争と関わったのかを示す箇所を引用しておきたい。
以下は、三好達治の場合。
太平洋戦争が始まると達治は日本の勝利や日本の国家国民を賞賛称揚する「戦争詩」を複数制作し、『捷報いたる』『寒柝』『干戈永言』といった詩集にまとめて発表した。
桑原武夫は戦後「三好達治君への手紙」という文章で、「自由をもたぬ日本人が戦争を歌ふとすれば、戦争は天変地異にほかならぬわけであり、自然詩となるのは当然である。(中略)したがつて君のみならず日本の詩人は、ヴィクトール・ユゴーのやうに、またアラゴンのやうに(「世界評論」にのつた嘉納君の断片訳をみたのみだが)戦争の内へ入つて、その悲惨と残忍を描きつゝ、なほかつそれらがより高きものの実現のためには不可避だとし、つまりその戦ひをよしとしてこれを歌ふことはできなかつた。」と評した。
また、石原八束は「開戦当初の捷報がこの知識人一般をも狂わせたのである。三好の詩業にとってもこの詩集がその汚点となり無限の悔恨となったことは云うをまつまい」と指摘するとともに、軍隊経験のある達治が「国のために命を捧げている軍人」に対して「できるだけのことはしなければいけない、ということだったのではないでしょうか」と述べている。
日本文学報国会から委嘱されて「決戦の秋は来れり」の作詞も手がけた。
以下は、高村光太郎の場合。
1929年(昭和4年)に智恵子の実家が破産、この頃から智恵子の健康状態が悪くなり、のちに統合失調症を発病した。1938年(昭和13年)に智恵子と死別し、その後1941年(昭和16年)8月20日に詩集『智恵子抄』を出版した。
智恵子の死後、真珠湾攻撃を賞賛し「この日世界の歴史あらたまる。アングロサクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる」と記した「記憶せよ、十二月八日」など、戦意高揚のための戦争協力詩を多く発表し、日本文学報国会詩部会長も務めた。歩くうた等の歌謡曲の作詞も行った。
1942年(昭和17年)4月に詩「道程」で第1回帝国芸術院賞受賞。1945年(昭和20年)4月の空襲によりアトリエとともに多くの彫刻やデッサンが焼失。同年5月、岩手県花巻町(現在の花巻市)の宮沢清六方に疎開(宮沢清六は宮沢賢治の弟で、その家は賢治の実家であった。しかし、同年8月には宮沢家も花巻空襲で被災し、辛うじて助かる。
1945年8月17日、「一億の号泣」を『朝日新聞』に発表。
終戦後の同年10月、花巻郊外の稗貫郡太田村山口(現在は花巻市)に粗末な小屋を建てて移り住み、ここで7年間独居自炊の生活を送る。これは戦争中に多くの戦争協力詩を作ったことへの自省の念から出た行動であった。
長く生きることは、創作活動できる期間が長くなるので良いことのはずだ。しかし、戦前・戦中・戦後という、激変した時代を生きるということは、詩人にとっては極めて過酷なことであったろう。