長澤延子(ながさわのぶこ)の「折り鶴」という詩をご紹介します。
折り鶴
紫の折鶴は
私の指の間から生れた
ボンヤリと雲った秋を背中にうけて
暗い淋しい心が折鶴をつくる
ああ秋は深く冬は近い
机の上にひろげられた真白なページに
今日もインクの青さがめぐっている
友よ何故死んだのだ
紫の折鶴は私の間から生まれた
落葉に埋れたあなたの墓に
私は二つの折鶴を捧げよう
私とあなたは折鶴など縁遠い存在だったけれど
あなたが私のもとを去った日から
何故か折鶴があなたの姿のように見えるのだ
もの言わぬあなたの墓に
私は二つの折鶴を捧げよう——紫の折鶴を
あなたと私とのはかない友情を表した
あの淋しい折鶴を
この詩「折り鶴」を書いた長澤延子は、17歳と3ヶ月で亡くなってしまった。服毒自殺だったという。
この詩人を私が知ったのは、真鍋仁の著書「詩の中にめざめる日本」である。
この本に掲載されている長澤延子の詩は「告白」だ。この「告白」も良いので、いずれ紹介したい。
で、今回ご紹介した「折り鶴」だが、ネット上では「14歳の詩集より」と書かれている。
早熟という言葉があるが、長澤延子の早熟さは、異様な光を放っている。その光は「蒼白い炎」と呼んだほうがふさわしいだろうか。
早熟の中身が、感性が、鋭いとか、清新だとか、瑞々しいとかいうことよりも、老成という言葉さえ想起してしまう、異様なまでの大人びた言葉の使い方(表現技巧)が眼に痛い。
たったの17歳で逝ってしまった少女の少女らしさが、長澤延子の詩(の修辞学)からは微塵も感じられないのである。
子どもであることを、抹消しようとしている、それこそが幼さかもしれない。
だが、そんなことよりも、この「折り鶴」には、大人びた冷めた表現に隠されてはいるが、必死に生きようとする魂の叫びが、確かに感じられる、そのことが大事なのだ。
現代を生きる私たちが忘れ果ててしまった「遠いひたむきさという風景」が、「折り鶴」の硬質表現から鮮明に伝わってきて、蒼白い炎を見つめているような奇妙な快感を覚えるのである。
いいですね