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「あいにく」の漢字は「生憎」が正しく、「相憎」は間違い?

あいにく」も間違えやすい日本語のひとつなので、しっかり覚えましょう。

 

「天気予報は晴れだったのに、運動会の当日は、あいにく雨になった」

 

この場合の「あいにく」を感じに直すと、正解は?

 

生憎」が正しい答えです。

 

相憎」と間違えないように注意しましょう。

 

パソコンの変換では間違わないと思うのですが、手書きの時は、正しく書けない人も多いと思われます。

 

そもそも「生」を通常は「あい」とは読まないので、「あいにく」の「あい」を「生」とは書きにくいわけです。

 

では、以下で、「生憎」の意味と語源についてご説明しましょう。

 

三省堂の大辞林は「生憎」について以下のように解説しています。

 

期待や目的にそわない状況になって、都合が悪く残念なさま。自分の場合にも、相手の気持ちを思いやる場合にも用いる。

 

「ああ、憎らしい」と悔しがっていう言葉「あや(ああ)憎し」が「あやにく」となり、さらに「あいにく」と変化したのが「生憎」といわれています。

 

ただ、「あや」あるいは「あい」の部分に、なぜ「生」の字をあてたのかは、よくわかっていません。

 

しかし、「相憎」と書くのは、明らかに誤用なので、間違えないようにしましょう。

 

「相」は、普段から「あい」と読むので、間違いやすいですよね。

政治家が詩人であるべき理由

詩を読んでいる(詩心を働かせることが習慣になる)と、様々なことが学べ、様々な能力が養われます。

 

その一つに「人の哀しみがわかるようになる」ことがあるのです。

 

「人の哀しみがわかる」は言い換えますと「人の哀しみを自分のこととして感じられるようになる」とも言えます。

 

また、「人は哀しみを知ってはじめて、想像力という翼を広げられるようになる」と言い換えることができるでしょう。

 

今の政治家で、人間の哀しみを理解している政治家が何人いるか?

 

国民を幸せをかなえる政治をしようと思えるのは、人の哀しみを知っている人だけではないでしょうか。

 

想像力の貧困な人間に政治をまかせたら、とんでもないことになる。

 

人々の哀しみを共有できない政治家は、利権に走ることになる。

 

以上の意味から、政治家は詩を読んでいなければならないし、詩人でなければいけません。

 

詩人と政治家は、結びつきにくいのですが、以上のように考えると、政治家は詩人でなければいけないことがご理解いただけるでしょう。

 

詩を読むと人の哀しみがわかるようになるのには理由があります。

 

詩人は自分自身のあるいは人間が本来もっている「哀しみ」を泉として詩作するからです。

 

詩創作の源泉は、例外なく「哀しみ」です。

 

美しさの中には必ず哀しみがある」と、チャップリンが言いました。

 

また、ロダンは「人は哀しみを捨てるべきではない、哀しみを失うと人は無訓練になってしまう」と述べています。

 

誰も哀しみたくはありません。歓びにあふれ、癒しの中に安寧を得たいと願っています。

 

ですが、哀しみを知らぬ者は、自分だけが裕福になろうとして、多くの人を哀しませることになりがちです。

 

哀しみを理解できない者は歴史がわかりません。なぜなら、歴史は想像力を働かせなければ理解できないから。

 

以上の意味から、政治家だけでなく、私たち全員が詩人であるべきだと言えます。

「セーラー服の歌人 鳥居」にある媚薬成分の秘密

岩岡千景セーラー服の歌人 鳥居 人った新聞で字を覚えたホームレス少女の物語」を一気に読んだ。

 

重い内容のはずなのに、なぜか、速読できしてしまう、ここにこの本の媚薬、いや、中毒性を感じる。

 

天童荒太の「永遠の仔」という小説の雰囲気と似てもいた。鳥居の歌集にも同じ空気感があった。

 

読み終えた時の興奮状態が冷めた今、鳥居という歌人は、できるだけそっとしておいてあげてほしい、という思いが急に湧いてきている。

 

演劇に例えるなら、「セーラー服の歌人」という大役を演じ切って、クタクタになっているはずである。

 

鳥居の歌集は、泥臭いほど純粋な刃物だ。逆境から這い上がるために犯罪に手を染める、韓国ドラマの愛に飢えたヒロインの眼光に酷似する時もある。

 

岩岡千景氏の伝記も力作だ。ゴーストライターが書いた傑作自伝といわれる、山口百恵の「蒼い時」を想い出した。

 

ネットでは、多くの捏造が入っているとの書き込みがあるが、そういう批難が出るのも当然だろう。

 

出版社の鳥居の売り出し方は、揶揄されても仕方がないくらい、あざといものだ。

 

この商魂たくましいセールスプロモーションが、鳥居にずっとつきまとわなければいいが……。

 

セーラー服を脱ぐことで、一度ついたラベルを消せるとは思いにくい。

 

しかし、しかし、である。鳥居の短歌の中には、怪しく光るものがあることは確かである。天使と悪魔が同居する少女を演じる、天才子役に似た輝きだ。

 

鳥居という表現者を語る時、いろんな人格を演じられる天性の役者を想起しないと、鳥居の歌の真意をつかめないかもしれない。

 

その類まれな演技力は、母親から授かったものであり、生きぬくための芸でもあるのだろう。

 

プロジェクトは終了したのだし、岩岡千景の仕事は完成しており、もうやるべきことはない。

 

鳥居の20年後「あの人は今?」的な企画はやめてほしい。

 

私たちにできるのは、鳥居を休ませてやることぐらいしかない。鳥居を休ませるとは、彼女にいかなる演技をも強いないということ。

 

疲れていたら、微笑む必要はない、ぐったりと寝込んでいいのだよと、私はそっと告げたい気持ちである。

 

たくさん感想が書ける気もするのだが、なぜか、今はまるで書けない。

 

鳥居を独りに帰してやろうではないか。もう、救いの手は求めていないだろう。

 

極端な客体化から、ご自分を解放してあげてほしい。

 

鳥居によって、文芸復興の芽もあるかと、一瞬期待したが、そんな期待をかけたら、鳥居に過負担になるだろうから、その期待は取り下げておく。

 

私は私で、旅に出たいと思う。私に帰る旅に。

 

⇒鳥居の短歌を読みたい人はこちらへ

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