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まあるい未来へ~愛があるから、希望が生まれる。

詩心回帰まあるい未来」とは、誰もが本来持っている「詩心」を目覚めさせ、存分に活かして、「希望あふれる未来」を創造してゆくことにあります。

 

短く表現すると、詩心による希望ある未来の創造、それが詩人革命です。

 

人間は「愛」が不足すると、息苦しくなる生き物です。

 

今申し上げた「希望あふれる未来」をつくるためには、大小2つの視点が必要です。

 

政治を変え、社会全体をより良い方向に変えてゆこうとする大きな視点。

 

まずは、自分の足元から、眼の前から、日常を変えてゆこうとする小さな視点。

 

この大小2つの視点に共通して必要なのは「愛」です。

 

今、国に、社会に不足しているのは「愛」だと思います。

 

人は空気が少なくなれば息苦しくなりますよね。実は、「愛」が不足しても息苦しくなるのが、人間なのです。

 

人は愛情が不足すると、心が荒れ、悪いことをしでかしたりしてしまう。

 

では、社会や生活のどの部分で「愛」が足りないのでしょうか。

 

愛あふれる街の風景を見て、毎日暮らしたいと思いませんか。

 

今回私が語りたいのは、「街の風景」です。

 

私がここでいう「街」は「道(道路)」も含んでいます。

 

まず、道を歩いていて、気持ちのいい道がない。まちの風景を見ていて、美しい、心が和む風景がない。

 

どうしてか?

 

街を作る人間に愛情が不足しているからです。

 

道は基本として、歩車道分離であるべき。でないと、人が安心して歩けません。

 

道や街の風景は、毎日、歩くし、眼に入るもの。どうして、そういうことろに、愛情を注がないのか、お金をかけないのか。

 

オリンピックとなどの大型イベントを開催するより、巨大なリゾート施設をつくるより、人々の生活に不可欠な、道を含む、美しい街づくりを急ぐべきです。

 

建物と道との関係から成り立つ心地よい造形性、つまり、美的視点もまったく感じられない街ばかり。

 

街には、街路樹や公園など、樹木や草木がどうしても必要です。緑を減らして、効率ばかり追い求めている街が多すぎるので、そこにいる人間の心が渇くのです。

 

最も恐いのは、愛のない街の風景が当たり前になっているということ。街の風景など、こんなもんさ、と諦めている。

 

実は、美しい街の風景の創造が、最も難しいかもしれません。政治がよどの良くならないと、街そのものが美しくなることはないでしょうから。

「キリンの子 鳥居歌集」は、空色の割れた摺りガラスである。

※この記事は、鳥居の「キリンの子 鳥居歌集」を一読した直後の印象記録に過ぎません。

 

鳥居と呼ばれる歌人の「キリンの子 鳥居歌集」を今日読み始めたのだが、その時から、体のそこここに痛みが出ている。

 

これ以上、読み続ければ、私が壊れてしまうのではないか、そう思い始めるほどの、痛みを伴う読書となっている。

 

体の各所に痛みが出るという読書経験は、おそらくは初めてである。

 

鳥居という名の魂(命)は、水色の割れた磨りガラスである。

 

この鳥居という少女は、真綿で包まれるような優しさを拒絶している。鳥居は抱かれることも抱きしめることもできず、呆然と立ち尽くしている。

 

慈しみという名の感情を抱いても、彼女は素直に対象を抱きしめられないほど、傷んでいるのだ。

 

痛みが激し過ぎて、無感覚になった経験のある者だけがわかる、極限における不感症状態がこの歌集には満ちている。

 

生身の自分から距離をおいて、見たり感じたりすることは、作家ならば誰もがやっていることだ。しかし、鳥居は、日常という時間の中で呼吸している自分から乖離して自分自身をとらえることに、慣れすぎている。

 

鳥居は、蒼白い色をした磨りガラスである。その磨りガラスは無惨に割れており、その鋭い割れ口は、鋭いがゆえに美しい。

 

鋭利な割れ口は、優しく包まれることを拒否しているかのようだ。

 

いや、拒否しているのではなく、優しく抱かれたとしても、体重をその温かい手にゆだねられないほど、傷つきすぎている。

 

例えば、私が鳥居の頬に残る涙のあとを、指でこすってから、そっと抱き寄せても、彼女は拒みはすまい。

 

だが、決して、自ら私にもたれかかりはしないだろう。

 

「キリンの子 鳥居歌集」を読む辛さは、そして同時に、この歌集の稀有な美しさは、その割れたままの水色摺りガラスの放心にある。

 

暗い湖で溺れた後の冷えた体に、体温は戻りつつあることは確かだ。

 

割れたガラスは、長い時間を経て、いつか、球体に姿変えるだろうか。手の温もりに自ら応じる生命体となるであろうか。

 

以下、鳥居調とも呼ぶべき代表的な短歌を引用しておこう。 この記事の続きを読む

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山本周五郎「赤ひげ診療譚」中の「狂女の話」。その筆力には気負いのない凄みがある。

山本周五郎の小説「赤ひげ診療譚」を久しぶりに読み返している。職を転々としていた二十代の頃、夢中になって読み込んだのが、山本周五郎の小説群であった。

 

長編小説の「樅ノ木は残った」は私が最も敬愛する作品である。しかし、山本周五郎はやはり短編小説の方が優れているという思いが消えない。

 

今回取り上げる「赤ひげ診療譚」は、八つの短編で構成されているから、これもまた短編小説と言えるだろう。

 

山本周五郎の作品年表を見ていて、ハッとした。

 

 

樅ノ木は残った (1954-58年)
赤ひげ診療譚 (1958年)

 

 

山本周五郎は、1903年生まれだ。年齢的にも最も脂がのった時期に、私が最も高く評価する2つの作品が続けて生み出されていたのである。

 

今日取り上げるのは、第一話「狂女の話」。

 

「赤ひげ診療譚」の最初の一編「狂女の話」の筆力は凄い。「凄い」という意味は、力強いとか、鬼気迫るとか、そういう感じではない。むしろ、その逆である。

 

この極めて優れた短編小説には、気負いがない。肩の力は見事にぬけている。余計な細部の書き込みもない。大げさな表現も、過剰に詩的な比喩もありはしない。だからこそ「凄み」を感じるのだ。

 

「狂女の話」は七つの章でできているが、圧巻は最終章である。

 

最終章の後半は、周五郎節の真骨頂が味わえる。夢の現実が交錯しているかのような場面。この特殊な演出を、よくぞ思いついたものだ。しかも、よくぞここまで、気張らないで過不足なく描写できなものである。

 

これが長年にわたって小説を書いてきたものだけが到達できる、小説話法の境地であろう。

 

久しぶりに読み返して本当に良かった。いきなり、小説の醍醐味が楽しめたからだ。

 

そして、人間というものは一筋縄ではいかぬ、いかんともしがたい摩訶不思議な生き物だということを、生々しく再認識できた。

 

これぞ、まさに、小説である。

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