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「自分を消さない、消させない!」という覚悟が必要な時代になる。

数年前までは、風花未来は「自分らしさを、伸ばしましょう」というふうなことを語っていました。

 

ところが、もう、そういう悠長なことを言っている状況ではなくなっています。

 

自分という存在が、この世にあり続けるか、消え去るか。もっと短く言うなら、消えるか、消えないか、そういうギリギリの時代になってゆく気がしてなりません。

 

例えば、私たちは毎日、かなりの時間、スマホを見ていますよね。

 

実は、スマホを見ている時間は、自分が消えているのです。あるいは「消されている」と言った方が的確かもしれません。

 

スマホから得る情報は、一次情報ではありません。つまり、自分で取材したことでもなければ、自分自身が体験したことでもなりことを、ただ一方的に享受させられているのですね。

 

こういう時間が長くなればなるほど、自分という存在は希薄になってゆきます。

 

では、自分が消されていない、消えていない状態とは、いかなる状態を指すのでしょうか。

 

簡単です。

 

丘に登り、空を見上げて、流れる雲をじっと眺めていればいい。

 

この時は、世界と自分自身が直接つながっているので、自分自身を感じることができます。

 

しかし、現代社会は、そいういう、いわば「何もしていない時間」を限りなくゼロにしようと、人々を追い込んでいるのです。

 

自分らしくあるためには、社会は自分をほったらかしにしておいてくれるのが一番良いのです。

 

ところが、現実は真逆。

 

社会は次々とこちらに向かって、情報を送り込んでくる。スマホという携帯端末を持たされているために、どこへ逃げても、情報に追い掛け回されてしまうのです。

 

疲れた目を休めたいと思っていても、スマホを見ることはすでに習慣を超えて、中毒になっているので、目の痛みに耐えながら、スマホをのぞき込み続けている始末。

 

自分探しとか、自己実現とかいう言葉がはやった時代がありました。

 

今思うと、そういう時代は「のどか」でしたね。

 

今はもう、自分を探したり、本当の自分になろうとすることさえ、奪い取られ、人らしさ、自分らしさを消されたまま、ただ、月額の通信料を絞りとられているだけだと言ったら言い過ぎでしょうか。

 

こういう負の連鎖に追い打ちをかけようとしているのが、5G、IoT、AIなどの急速な普及です。

「男はつらいよ 寅次郎恋やつれ」で発見した吉永小百合の特殊な影響力。

久しぶりに「男はつらいよ」シリーズを見た。今回鑑賞したのは、シリーズ第13作目「男はつらいよ 寅次郎恋やつれ」だ。

 

「男はつらいよ 寅次郎恋やつれ」は、1974年8月3日に公開された日本映画。観客動員数は194万4000人で、シリーズ歴代 1位を記録した。

 

「男はつらいよ 寅次郎恋やつれ(第13作)」の視聴はこちらで

 

マドンナ役は、吉永小百合。吉永小百合は、薄幸で純粋な女性を好演。というか、吉永小百合は、吉永小百合であることを、全身で演じているかに見えた。

 

キムタクこと木村拓哉は、常に木村拓哉を演じてきている。木村拓哉以外の役を演じたら、背徳となる宿命を背負っているかのようだ。

 

吉永小百合も同じである。一度、犯罪者の役を「天国の駅」という映画で演じたことがあるが、やはりその時も、吉永小百合であった。

 

吉永小百合は悪女を演じても、あくまで聖女なのである。

 

では、今回見た「男はつらいよ 寅次郎恋やつれ」はどうか?

 

いつものように、吉永小百合は吉永小百合を演じていたが、それにとどまらず、この映画も吉永小百合の映画になってしまっていた。

 

これはもう、「男はつらいよ」ではない。吉永小百合の映画に、フーテンの寅が友情出演しているかのようなのだ。

 

どうして、こんな奇跡のようなことが起きるのだろうか。

 

この映画に出演した時の吉永小百合は、絶頂期だと断言できる。

 

幼すぎず、大人になりすぎておらず、異様なまでの美しい光を孕み、その光を音もなく発していて、現実の女性とは思えないまでの神々しさを放っているのだ。

 

神の領域というと大げさだろうか。

 

宗教画の一場面を見るかのような気持ちで、吉永小百合の姿を私は見ていた。

 

聖母や生き仏を想わせる女性は、昔は現実にも存在したが、今となっては、映画の中にいる吉永小百合くらいのものではないだろうか。

 

こんなふうに映画を偏った見方をしたのは、おそらくは初めてである。

 

映画鑑賞という行為が、まともに機能しないくらい、吉永小百合という女性は特別であり、多大な影響力を持つ。

 

ここまでくると、もはや、演技力などは問題ではない。

 

吉永小百合という存在を、そして、その絶頂期を、この「男はつらいよ 寅次郎恋やつれ」で目の当たりにできることは、私たち日本人にとって幸福なことだと思うのである。

 

それにしても、最後まで見るのが息苦しいほど、今回の吉永小百合は美し過ぎた。

喜劇映画の名作「サラリーマン専科」で、加勢大周が演じたキャラが秀逸。

映画「サラリーマン専科」は、1995年12月23日公開の日本映画。

 

サラリーマン専科はこちらで視聴できます

 

監督は山田洋次かなと思いつつ、ちょっと違う気がしたのだが、朝原雄三だった。

 

朝原雄三は長いこと山田洋次の助監督をつとめていたので、映画には山田テイストが反映していることは確かだ。

 

この映画の主人公は、三宅裕司が演じる、しがない庶務課長である。

 

だが、ひときわの輝きを放っている俳優がいた。それは、加勢大周

 

到底、演技派とはいえないはずの二枚目俳優が、この映画では、特異なキャラを物の見事に演じ切っている。

 

イノセントと呼ぶべきキャラ、つまり、世間ずれしていない、処世術など全く知らない、純粋な青年を、ごく自然に演じていた。

 

裕木奈江にプロポーズするシーンは、泣けるほどだ。

 

こういう青年が、この世にいてくれる、そう思うだけで心が癒される。

 

この加勢大周のおかげで、この映画には深みが生まれ、味わいが生まれ、光るものがプラスされた。

 

そのため、単なる喜劇では片づけられない、名作と呼びたくなるようなサムシングのある映画になっている。

 

キャスティングを点検すると、まったく無駄がない。ベテラン俳優たちが、自分に与えられた役を、きっちりこなしている。

 

以下、キャストをあげておくが、一人欠けても映画が成立しないくらい、脇役まで、しまった演技を見せてくれていて、確かな「芸」を堪能できる。

 

三宅裕司

田中好子

田中邦衛

裕木奈江

加勢大周

小林克也

斎藤陽子

南田洋子

西村晃

 

実はこの映画、私が鑑賞するのは、3回目である。何度見て、飽きないで最後まで楽しめるのだ。

 

この「サラリーマン専科」は、日本映画の確かな収穫であり、貴重な喜劇映画の名作なのである。