「生かしていただいている」と「生きさせていただいている」、どちらが正しい?

以前に「させていただく症候群」について、書いたことがあります。「させていただく」という表現が濫用されているので、気を付けた方が良いことは間違いありません。

 

私自身、「させていただく」症候群と誤用の理由」という記事を書いてから「させていただく」と書くのを、極力さけるようになりました。

 

実は、その記事について、読者の方から、注意のメールをいただいたことがあったのですね。お名前は仮に、Aさんとしておきます。

 

私は記事中で「生きさせていただいている」と書いたのですが、Aさんは「生きさせていただいている」という表現は違和感があるから「生かしていただいている」に修正すべきだとおっしゃる。

 

以下、そのメール文の一部を引用いたします。

 

 

「生きる」は自動詞なのに対して「生かす」は他動詞です。「○○させていただく」という謙譲の念をお持ちなのでしたら、自分が今こうして生きているのは何かの力(それが何かは分かりませんが)によると思った方が自然ではありませんか?

 

だったら「生きさせていただいている」より「生かしていただいている」の方がぴったり来ると思います。自分の生死は自分の力ではどうにもなりませんから。

 

 

このメールをいただいた時に、Aさんの意見の方が一般的であると感じました。

 

実際に、ネットで検索しても「生かしていただいている」は多数出てくるけれども、「生きさせていただいている」は非常に少ないのですね。

 

しかし、「わかりました。そのように修正いたします」とは返信しませんでした。何かが腑に落ちなかったからです。

 

日本語の表現として「生かしていただいている」の方が定着していて、自然な感じがしますね。それは認めます。

 

ところが、よくよく考えてみますと、「生かしていただている」と「生きさせていただいている」は、似ている表現のように見えますが、実は、ニュアンスはかなり異なるのです。正しいとか、正しくないとかいうこととは、別の問題だと思えてきました。

 

以下、この問題について、私なりの見解を書いてみます。

 

私の場合、「生きる」といいうことに関して「生かしていただている」という表現の方に、違和感があるのです。

 

私はこれまで、4回ほど死にかけたことがありました。運が良かったこともありますし、自分の生命力が死をはねのけたという面もありました。

 

命に関わる病気をした時に、私が痛感したのは、自分自身が強烈に生きようとしないかぎり、決して生きられないということ。

 

「生きる」か「死ぬか」の土壇場では、誰も助けてはくれない。医師も、現代医学も、神も仏もあったものではない。自分自身が命の炎を燃やそうとしなければ、生きてこの世には存続できない。

 

「生きる」とは、あくまで自分の意志で「生きようとする」ことが前提であるというのが、私の人生観になっているのです。

 

生きている以上、「傲慢さ」はぬぐえないものだし、強い生命力は、ある時は「暴力性」を帯びることもあるし、生きることと自体、綺麗なだけでなく、暗黒面を有していることも否定できません。

 

そのことを認めた上で、私の場合は、自分の意志で「どうしても、生きてゆきたい」と強く願っているのです。

 

だから「生かしていただいている」というふうに、仏教の悟りのような境地には至れません。そういう悟りを否定する気は毛頭ありませんが、私の場合、煩悩に振りまわされながら、たとえ無節操であっても「生きたい」のです。

 

というか、そういうことが「生」だと思います。

 

ただ、この世に生き続けられるのは、多くの人に支えられているからだし、自分を生んでくれた両親のおかげだし、一つ違う方向に行っていれば死んでいたのに、そちらには私を行かせなかった「運命」にも感謝しなければなりません。

 

だから、私の場合はあくまで自分の意志で生きることが前提となっていて、それでも「どうか私が生きることを受け入れてほしい」という気持ちが強いので、「生かしていただいている」というよりも「生きさせていただいている」と表現しなければ、自分を正直に表現できないわけです。

 

二十代の前半に、東山魁夷の「風景開眼」という文章を読みまして、その中で、自分は生きているというよりも、生かされている、というふうな表現がありまして、強い感銘を受けました。

 

「何かに生かされている」という実感は、まだ若かった自分にはなかったのですが、なぜか感じ入ったのでした。

 

ただ、現在の私はと申しますと「生かされている」という悟りの境地には、今なお遠い感じがしてなりません。「生かされている」感覚、あるいは、思いがないわけではありませんが、その思いだけに染まる謙虚さが私には足りないのかもしれません。

 

正直に、私の今の心境を語ると、このようになります。

 

 

未熟でいたらないところが多く、いつも矛盾を抱えて葛藤し続けているけれども、私はまだ生きていたいのです。私の「生」を支えてくれる有形無形のものに対する感謝の気持ちは、日々強まっていることは確かです。

 

しかし、徳のある生き方ができる自信はなく、今後も、愚かさを露呈することになるかもしれませんが、とにかく『生きさせていただきます』ので、ご容赦ください。

 

 

末尾となりましたが、Aさんのメールのおかげで、いろいろ考えさせられ、見えてくるものがありました。貴重なご意見、本当にありがとうございました。

1つの文中で同じ言葉は使わない。

以前、同じ意味の言葉は繰り返さないことを述べました。二重表現(重複表現)の禁止です。⇒二重表現(重複表現)に気をつける

今回は、同じ言葉を重複して使わないことについてお話しします。

1つの文の中に、同じ言葉(語句)が2回以上使われますと、文にリズムが失われ、非常に稚拙な感じがしてしますので、ご注意ください。

例えば、以下のような文。

スマホがこれほどは普及していなかった時代は、多くの人たちがブログにはパソコンからアクセスしていたので、もっと記事をじっくりと読んでもらえる、良い時代だった気がする。

これですと「時代」が2回使われていますね。

スマホがこれほど普及していなかったはブログをパソコンで見る人が多く、記事をじっくりと読んでもらえるので、ブロガーには良い時代だった。

1回目の「時代」を「頃」に変えることで、同じ言葉の重複を避け、文のリズムを整えています。また、文が長いので、表現を簡略化して、読みやすくしてみました。

では、もう少しシンプルな例をあげてみますね。

最近の文庫本は、500円以下の文庫本が減り、1000円以上の文庫本も珍しくなくなった。

これですと「文庫本」が3回も使われていて、くどいですよね。

最近の文庫本は、500円以下の価格帯が減り、1000円以上が珍しくなくなった。

上のように書き直しますと「文庫本」は、1回の使用でおさえられます。

発酵玄米と気功法で、健康体質を目指しています。

現在、激しい運動はできない状態なので、ジムのスタジオでは「気功法」を習っています。

肺に異常があるらしいので、肺にも良いという呼吸法が「気功法」でもあるのですね。

先日、気功の先生に「発酵玄米」の炊き方を教えていただきました。

ふつうの玄米は、消化が悪いという欠点があるのですが、この「発酵玄米」は消化も良く、栄養価を玄米よりも高いとか。

まあ、厳密な検証はせず、とりあえず、炊いてみることにしました。

ポイントは、炊いてから、72時間保温状態にすることです。食べるのは、その後のこと。ですから、3日間は、炊飯器が「発酵玄米」に占領されていまうわけですね。ちょっとこれが面倒なのですが、健康づくりのためとあきらめて、挑戦している次第です。

「発酵玄米」は「寝かせ玄米」とも呼ばれ、テレビで木村拓哉さんがほめたことから、ちょっとしたブームになっているらしい。芸能人の力はすごいですよね。

それはともかく、しばらくは、この「発酵玄米」と「気功法」で、免疫力アップを目指したいと思っています。

私の習っている気功法は、中国宮廷気功21式です。こちらの本は、読み物としても面白いですよ⇒病気が怖くなくなる超呼吸法 [ 王汀 ]