長田弘の詩「世界は一冊の本」にある、嘆きと願いとは?

長田弘の「世界は一冊の本」という詩をご紹介します。

 

世界は一冊の本

 

本を読もう。

もっと本を読もう。

もっともっと本を読もう。

 

書かれた文字だけが本ではない。

日の光、星の瞬き、鳥の声、

川の音だって、本なのだ。

 

ブナの林の静けさも

ハナミズキの白い花々も、

おおきな孤独なケヤキの木も、本だ。

 

本でないものはない。

世界というのは開かれた本で、

その本は見えない言葉で書かれている。

 

ウルムチ、メッシナ、トンプクトゥ、

地図のうえの一点でしかない

遙かな国々の遙かな街々も、本だ。

 

そこに住む人びとの本が、街だ。

自由な雑踏が、本だ。

夜の窓の明かりの一つ一つが、本だ。

 

シカゴの先物市場の数字も、本だ。

ネフド砂漠の砂あらしも、本だ。

マヤの雨の神の閉じた二つの眼も、本だ。

 

人生という本を、人は胸に抱いている。

一個の人間は一冊の本なのだ。

記憶をなくした老人の表情も、本だ。

 

草原、雲、そして風。

黙って死んでゆくガゼルもヌーも、本だ。

権威をもたない尊厳が、すべてだ。

 

2000億光年のなかの小さな星。

どんなことでもない。生きるとは、

考えることができると言うことだ。

 

本を読もう。

もっと本を読もう。

もっともっと本を読もう。

 

以下、いくつかの連を引用しながら鑑賞してみたい。

 

本を読もう。

もっと本を読もう。

もっともっと本を読もう。

 

「本を読もう」と言っても、現代人は本を読まなくなったので、もっと本を読んで知性的になろう、とかいう読書週間の標語みたいなことを、この詩は言いたいのではないだろう。

 

書かれた文字だけが本ではない。

日の光、星の瞬き、鳥の声、

川の音だって、本なのだ。

 

眼に見えるものだけでなく「川の音」までも提示したことが素晴らしい。

 

ここまで読んでも、長田弘が主張する「本を読む」という行為は、ただ単に知性を磨くだけでなく、極めて精神的で詩的な能動的アクションを指すとうことがわかる。

 

「読もう」という呼びかけは「もっと豊かになろうぜ、このままだと精神的に、人間として貧しすぎないか」という、悲嘆と憤怒が込められているようだ。

 

本でないものはない。

世界というのは開かれた本で、

その本は見えない言葉で書かれている。

 

「見えない言葉で書かれている」とまで言い切った時、長田弘は詩人の本性をあらわにした。

 

「私は詩人だけど、あなたも詩人になってほしい。詩人は眼に見えないものを読み取ることで豊かさに浸っている。あなたにも、見えない言葉に気づいてほしい。いや実は詩人は特別な存在ではなく、心の眼を開きさえすれば、誰でも詩人になれるんだ」と長田弘は言いたいのだと思う。

 

眼に見えないものを、眼に見えるものから、そして眼に見えなないものからも読み取れるようになると、自分の外側の世界も、自分の内側の世界も、詩、即ち、豊かでワクワクできるものにあふれていることがわかる。

 

そしてさらには、外も内も別々ではなく、つながっていることに気づく。

 

また、つながりを感じ取れなければ、本当の「豊かさ」はわからない。

 

私、風花未来は、「外なる世界」と「内なる世界」をつなげましょう、と5年ほど前から提唱してきている。

 

長田弘が「本を読もう」と、即ち「豊かになろう」と訴えているが、その「豊かさ」とは、まさに「外なる世界」と「内なる世界」を豊かに感じ取り、つなげながら、円を描き出すように、まあるく思考(志向)ことではないだろうか。

 

それを風花未来は「まどか」と呼んでいるのだが……。

 

「まどか」とは?

 

「世界は一冊の本」のところどころに、陳腐な表現があるのが気になるので、もう少し短くした方が、詩作品としての質は上がったのかもしれない。

 

しかし、それは些末なことである。

 

長田弘は「なぜ、こんな当たり前なことに気づいてくれないんだ」という強い嘆きから、饒舌にならざるを得なかったのだろう。

 

一人でも多くの人に、長田弘の思いに共感してもらいたい、と切に願いばかりである。

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室生犀星の詩一覧

室生犀星を、当ブログでレビュー済みの作品のみ、まとめてみました。

 

ふるさとは遠きにありて思ふもの

 

室生犀星の詩「春の寺」

 

室生犀星の詩「子守歌」

 

室生犀星の詩「きょうという日」

 

室生犀星の詩「本」

 

 

室生犀星の詩「本」から、古き良き時代を思ひ、現代を嘆く。


今回は室生犀星の「」というをご紹介。

 

 

本を読むならいまだ

新しい頁をきりはなつとき

紙の花粉は匂ひよく立つ

そとの賑やかな新緑まで

ペエジにとぢこめられてゐるやうだ

本は美しい信愛をもって私を囲んでゐる

 

新しい頁をきりはなつ」の意味がわからないと思います。

 

昔の本は、袋とじになっていて、ページをナイフなどで切り離さいと、読めなかったのですね。

 

室生犀星は1889年〈明治22年〉8月1日に生まれ、1962年〈昭和37年〉3月26日に死去しました。享年72歳。

 

亡くなったのが昭和37ですから、パソコンもスマホもない時代。しかし、その当時の人は、今よりもずっと本を読んでいた。もちろん一部の人たちですが、そういう傾向が強かったのですね。

 

NHKと民法テレビ局が開局したのが、1953年ですから、テレビもほぼない時代に、室生犀星は生きた、このことは知っておくべきでしょう。

 

私は10年以上前にテレビを断捨離しました。もともとテレビなどなかった時代のことを想うと、その頃を生きた人が羨ましく感じることがあります。

 

私は生まれたと同時にテレビがあり、いわゆるテレビっ子世代です。

 

パソコンは大人になって急速に普及し、インタネットは一日も欠かせない日々を送っております。

 

心の底では、パソコンやスマホから逃げたい気持ちが脈打っているのですが、パソコンとスマホの断捨離はまだできていません。

 

何が言いたいかと申しますと、テレビもパソコンもスマホもなければ、もっと本が読めるだろうにと思うのです。

 

自分で言うのもおかしいのですが、私は意志が弱く、ストイックでもありません。

 

ですから、読書と執筆を中心とした生活に切り替えるためには、パソコンとスマホを捨てないと無理だと思っています。

 

ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」に、どっぷり浸るためには、獄中生活を送るしかないのかもしれません。

 

話がそれてしまいましたが、令和の時代に、読書する、本を読むことは大変です。

 

いろんな誘惑も多く、つまり、ラクをして情報収集できる主題がいろいろあって、わざわざ本を買って読むなど、とても習慣化しません。

 

それでもなお、ゆったりと、カフェの片隅で、静かに読書したいと無性に思う時があります。

 

室生犀星の生きた時代は、詩人が詩人らしく生きるには恵まれていたとも言えます。

 

ただし犀星は、戦後は小説の方に専心したようですが……。

 

三木清という哲学者は、読書する前に、本棚から本を取り出す時、必ず両手を合わせて拝んだそうです。

 

昔は、読書という行為には、どこか神聖な、高貴な、精神的な薫りが漂っていたのでしょう。

 

体調を崩し、療養中の私ですが、これから新たな読書への目覚めが、あるかもしれない、と密かに期待でしているのです。