サトウハチローの詩「ちいさい母のうた」

今回は、サトウハチローの「ちいさい母のうた」という詩をご紹介します。

 

サトウハチロー「おかあさん」

 

ちいさい母のうた

 

ちいさい ちいさい人でした

ほんとうに ちいさい母でした

それより ちいさいボクでした

おっぱいのんでる ボクでした

かいぐり かいぐり とっとのめ

おつむてんてん いないいないバア

 

きれいな声の人でした

よく歌をうたう 母でした

まねしてうたう ボクでした

片言まじりのボクでした

ああ アニィローリー マイボニィ

それから ねんねんようおころりよう

 

羊によくにた人でした

やさしい目をした 母でした

ころころこぶたのボクでした

おはなをならす ボクでした

すぐにおぼえた 午後三時

おちょうだいする くいしんぼう

 

毎晩祈る人でした

静かに つぶやく母でした

寝たふりしているボクでした

なんだか悲しい ボクでした

春はうるんだ お月さま

秋は まばたきしている星

 

影絵を切りぬく人でした

うつしてみせる母でした

お手手たたくボクでした

何度も せがむボクでした

外はこまかい 粉の雪

影絵のきそうな白い路

 

夜なべをしている人でした

よくつぎをあててる母でした

ときどきのぞく ボクでした

よくにらまれる ボクでした

こおろぎ みみずく 甘酒屋

遠い チャルメラ おいなりさーん

 

話のじょうずな人でした

たくさん知ってる人でした

ソエカヤ?というボクでした

なかなか寝られない ボクでした

エクトロ・マロー アンデルセン

かちかち山に かぐや姫

 

ああ

思い出の中

その中で

こっちをむいている ちいさい人

ちいさい母

ああ 思い出の中

その中で

なお 甘えている ちいさいボク

ちいさいボク

ちいさい

ちいさい

むかしの

むかしの

むかしのボク

ちいさい………むかしのボク

ちいさい………むかしのボク

 

豊かだなあ。長いなあ。長いけれども、書き写すのには少し苦労したけど、どうしても書き写したくなる、ほんとにほんとに豊かな詩で……。

 

それと、何といっても、サトウハチローの詩才の豊かさ。

 

詩想が、書き出して詩らしき原稿が、完全な詩作品となるために、何が必要なのかを、サトウハチローの詩を読めばよくわかる。

 

母親をテーマに、このワンテーマで、ここまで喋れる人って、子供って、それ自体が事件だね。奇跡かもしれない。

 

奇跡だけれど、よくわかる。時代の変化が、日本の変化が、この詩に息づく母親を、子供も、残酷にも、現実社会から消し去ってしまった。

 

パソコンとか、スマホとかが「おかあさん」を消してしまったのかもしれない。それくらい、ちいさなことが、ささいなことが、この世で最大級に大切なものを、簡単に消してしまうのだろう。

 

遠い風景。いくら手を差しのべても、想いをめぐらせても、帰ってこない、かけがえのないもの。

 

そういうものを、そういうことを、想い出すためにしか、詩はあることの無念さよ。

 

懐かしいなどという生易しい気持ちではない。

 

「母」が、「おかあさん」が、日本の母親が、詩が、優しさが、温もりがよみがえって来る詩、それが「ちいさい母のうた」、哀しく、寂しいうただ。

 

サトウハチローのその他の詩はこちらに

映画「密会」は主演の桂木洋子だけが光るメロドラマ

映画「密会」を観て、複雑な気持ちになった。

 

「密会」は1959年に公開された日本映画。主演は桂木洋子。

 

映画「密会」はこちらで視聴可能です

 

最初に申し上げたいのは、桂木洋子の存在感は珠玉である。桂木洋子が主演する映画は滅多に見られないので、希少価値という点で私は評価している。

 

以下、少しく辛口の感想となる。

 

この映画の監督であるは「月曜日のユカ」を撮った中平康なので、それなりに期待したのだが、ラストシーンのわざとらしさ、安っぽさで、完全に興ざめしてしまった。単なる思い付きで大事なエンディングを演出するとは、映画監督としての資質さえも疑いたくなる。

 

これまで見た映画の中で、最悪のラストシーンだと断罪したい。

 

映像感覚など、才気を感じさせるところもあるが、例えば増村保造のように観る者を唸らせる、本物の凄みは全くない。

 

吉永小百合と浜田光夫の共演作「泥だらけの純情」でも、良いシーンとダメなシーンが混在し、出来不出来がハッキリあらわれる監督である。

 

趣味と映画を作っているようなところがあり、このレベルで、時代をこえて多くの人たちに評価されることは考えられない。

 

映画が大量生産された時代の娯楽作品は、この程度か、と揶揄されるのがオチである。

 

しかし、主演の桂木洋子だけは見ごたえがあった。映画全体も、桂木洋子だけにエネルギー傾注しているようにも見えた。

 

また、それで良かったのかもしれない。この映画の見どころは、貴重な桂木洋子が主演する、いわゆるメロドラマであること以外にはない。

 

自分の映画に責任を持つ、という姿勢が決定的に欠けているので、私は中平康を評価できない。

 

しかし、しかし、である。

 

高度成長期にテレビで放送されていた無数の昼メロを、私たちはもう観る機会はないが、そのスペシャル版を鑑賞できる、と思えば、この映画「密会」は価値を生むだろう、という見方できるかもしれない。

 

それにしても、吉永小百合が登場する前の日活の女優さんは、個性が光っていおり、味のある人、人間くさい役者さんが多かった気がする。

 

桂木洋子は1948年の映画「破戒」で池部良と共演している。

 

吉永小百合がデビュー(1960年「ガラスの中の少女」で初主演)してから日活は青春路線に切り替わるのだが、女性の描き方が一面的で、薄っぺらになってゆき、日本映画のレベルダウンを招いた一要因になったと私は思っている。

 

と言いつつも、日活青春映画にも捨てがたい魅力があるので、私は監督別に1960年代の日活青春映画をレビューしている。

 

日活青春映画(1960年代)監督別レビュー集

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