三船敏郎が主演した「日本のいちばん長い日」は、日本人必見の映画

映画「日本のいちばん長い日」は、1967年(昭和42年)に公開された日本映画。

 

映画「日本のいちばん長い日」はこちらで視聴可能です

 

監督は岡本喜八。主演は三船敏郎

 

異なるバージョンン役所広司が主演した2015年版)も存在するが、まずは、三船敏郎が主演した、この映画を見ていただきたい。

 

もちろん、映画としても傑作だが、歴史的な価値も極めて高く、文化遺産と言いたくなるほどの完成度を保持している。

 

日本という国には、こういう一日があった、そのことを私たち一人ひとりが深く体感するように知ることは意味がある。

 

岡本喜八の映画はいろいろ見てきているが、これほど大真面目に撮った作品は、他にはないのではないだろうか。

 

特筆すべきは、この映画「日本のいちばん長い日」には、女性がほとんで出てこない。表っとすると、一人も出演していないのではないかと思ったが、新珠美千代がほんの一瞬出ていた。

 

この「日本のいちばん長い日」について、最後に付言するなら、エンディングの音楽も良い。独立した楽曲として聴きたいくらいである。

 

それにしても、岡本喜八の映画監督としての技量は、すさまじいものがある。

 

他の作品には、遊び心もあり、映像センスは抜群であり、日本人には珍しいユーモアも魅力だ。

 

ここで、岡本喜八監督に敬意を表し、岡本喜八の監督した映画をすべてあげておこう。

 

岡本喜八 監督映画

 

結婚のすべて(1958年)

若い娘たち(1958年)

暗黒街の顔役(1959年)

ある日わたしは(1959年)

独立愚連隊(1959年)

暗黒街の対決(1960年)

大学の山賊たち(1960年)

独立愚連隊西へ(1960年)

暗黒街の弾痕(1961年)

顔役暁に死す(1961年)

地獄の饗宴(1961年)

どぶ鼠作戦(1962年)

月給泥棒(1962年)

戦国野郎(1963年)

江分利満氏の優雅な生活(1963年)

ああ爆弾(1964年)

侍(1965年)

血と砂(1965年)

大菩薩峠(1966年)

殺人狂時代(1967年)

日本のいちばん長い日(1967年)

斬る(1968年)

肉弾(1968年)

赤毛(1969年)

座頭市と用心棒(1970年)

激動の昭和史 沖縄決戦(1971年)
にっぽん三銃士 おさらば東京の巻(1972年)

にっぽん三銃士 博多帯しめ一本どっこの巻(1973年)
青葉繁れる(1974年)
吶喊(とっかん)(1975年)
姿三四郎(1977年)
ダイナマイトどんどん(1978年)
ブルークリスマス(1978年)
英霊たちの応援歌 最後の早慶戦(1979年)

近頃なぜかチャールストン(1981年)

ジャズ大名(1986年)

大誘拐 RAINBOW KIDS(1991年)

EAST MEETS WEST(1995年)

助太刀屋助六(2002年)

 

正直、うれしい。まだ見ていない映画があるからだ。他の監督作品はほとんど見終わっているので、楽しみがない。

 

だが、岡本喜八監督の映画は未見がけっこうある。本当に楽しみだ。

詩とは

」とは何か?と問われたら、どのように答えるか、その回答が即ち「詩の定義」となるかと思う。

 

まずは「辞書的な回答」から書き始めようかと思ったが、ネットで調べても、かんばしい答えが見つからない。

 

やはり、詩を定義するのは難しいようだ。

 

ちなみに、デジタル大辞泉は以下のように「詩」について説明している。

 

文学の様式の一。自然や人事などから受ける感興・感動を、リズムをもつ言語形式で表現したもの。押韻・韻律・字数などに規定のある定型詩と、それのない自由詩・散文詩とがあり、また、内容から叙情詩・叙事詩・劇詩などに分ける。

 

う~ん、これでは「詩」の説明としては、いかにも不充分だ。しかも、核心からずれているようにも感じる。

 

では、さっそくだが、風花未来は以下のとおり、詩を定義したい。

 

「詩」の定義

 

「詩」とは詩という文学表現ジャンルに属する作品を指すが、それだけではない。

 

「詩」は文学作品だけを指すのではなく、合理的・論理的・計量的・効率的・功利的な要素を超越して、人の心を揺さぶるプラスアルファの「何か」のことである。

 

その「何か」は、現実にある物体である必要はなく、眼に見えなくてもかまわない。

 

「詩」は「ときめき」に似ているが、それ以上の何ものかである。

 

「詩」は「おののき」である。単なる「ときめき」を超えた、衝撃的な感銘を与えてくれる。オオッっと思わず簡単の声をもらしてしまう、予測を良い意味で裏切る意外な快感を覚えるものが「詩」である。

 

人は「詩」に対し、心地よい眩暈(めまい)さえ覚え、感動して落涙することも珍しくない。

 

時に、神秘的で、摩訶不思議で、想像を絶する驚きを与えてくれるものであり、哀しく、美しく、生きとし生きるものへの慈しみの情を呼び覚ましてくれる。

 

 

「詩」に接すると、時に元気になれ、生きる勇気をもらえる、歓びがあふれてくる、理由の説明がつかない、人間の心身(主に精神)を無意識レベルで反応させるものだ。

 

一瞬のうちに、時間と空間を超えて、永遠を感じさせてくれるもの。

 

崇高かつ深淵で、極めて稀でありつつ、完全なる普通、あるがままそのままのものである。

 

「詩」は「ときめき」以上の超ポジティブな何かだ

 

「ときめき」を類語辞典で調べると、以下の類語が出てくる。

 

喜び 幸せ 幸甚 華やぐ心 胸キュン 心が弾む 胸騒ぎがする 心躍る ワクワク ドキドキ 胸が高鳴る 弾む心 ルンルン気分

 

では、「おののき」の類義語は?

 

スリル 身震 戦慄 ぞくぞくすること 身振 震 寒慄 震慴 震慄 震え おじけ 身震い 震い 身振い 身ぶるい

 

「ときめき」には恐怖心はなく、一方「おののき」には「怖れ」の気持ちが含まれていることがわかる。

 

だが、私は辞書通りに「おののき」という言葉を使うつもりはない。

 

一般的には「ときめき」は常にポジティブに使われが、「おののき」はネガティブな意味が込められることがある。だが、私が「詩」を定義する時には、超ポジティブな意味を込めているのだ。

 

ポジティブもネガティブも超越した「超ポジティブ」な境地の象徴、それが「おののき」である。

 

私が「詩」を定義する時には、心が震える、感動する、魂が震撼するといった強い意味を込めて「おののき」という言葉を使っている。

 

つまり、「詩」とは「ときめき」以上の超ポジティブな感動を意味する「おののき」なのだ。

 

「詩心」と「詩人」の定義

 

なお、「詩心」「詩人」の定義については、こちらをご参照ください。

 

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