大和言葉やまとことば)」について、あまり意識したことがありませんでした。しかし、このブログで「美しい言葉」を紹介するうちに、美しい日本語の多くが「大和言葉」であることに思い至ったのです。

 

「大和言葉」についていろいろ考えているうちに、一つの映像が浮かんできました。それは何十年も前に訪れた安曇野の風景です。

 

安野光雅という画家の絵に惹かれ、安曇野を旅した若い日のこと。安曇野の風景は、眼に優しいばかりでなく、心にもまろやかに馴染んできて癒されたのでした。

 

その遠い想い出を追いかけて、それから二十年以上も経ってから、また安曇野に足を運びました。

 

その時のショックを今も忘れることができません。

安曇野の風景が激変していたからです。

 

淡い水彩画の上に、それにふさわしくないキツイ色の絵の具が塗られたたように、新しい建物が、安曇野らしい優しい風景を壊してしまっていたのでした。

 

新しい建物が、眼と心に棘のように刺さり、辛かったのです。

 

今日のテーマは「大和言葉」でしたよね。

 

現代語とは、漢語、外来語、大和言葉で成り立っています。

 

大和言葉はいわざ古い安曇野の風景に似ています。そこに、新しい建築物が増え、コンビニができ、現代社会の便利さが日本のふるさとともいえる安曇野にも押し寄せてしまった。

 

漢語や外来語によって、存在さえも忘れがちな大和言葉は、消えゆく美しい日本の風景に酷似しているのではないでしょうか。

 

本当は、新しい建築物には、美しい風景を壊さないようなデザインが求められます。しかし、そういうことにはおかまいなしに、風景とか景観という考えを無視した建物が増えすぎたのです。

 

日本語も同じこと。目まぐるしく移り変わる時代の流れとともに、日本語もかき回され過ぎたのです。

 

今私が痛感しているのは、まるで郷愁のように、「大和言葉」を集めた本を読んでも、おそらくは日本語は美しくならないということ。

 

そういうことではなく、心を変えてゆくことが大事だと思うのです。

 

あの優しい安曇野の古き風景のように、心をまろやかに保つこと。その上で、穏やかで、たおやかで、麗しい言葉を、積極的に日常生活で使うこと。

 

そのことしか、乱れ切った日本語を少しでも美しく変える術はないと思えてなりません。

 

日本の気候、日本人の感性と気性に合った風景を作り出すことは、便利さや経済発展より、美しい風景の方が人間には必要なのだという価値観の転換をはかれば、不可能ではないでしょう。

 

同様に、日本語も「大和言葉」にある、やわらかさ、まろやかさを大事にすることが普通になれば、自ずと良い良い方向に変わってゆく気もしています。