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草野心平の詩「春のうた」は、みずみずしい生命讃歌。

今回は、草野心平(くさのしんぺい)の詩を取り上げます。

 

草野 心平は1903年(明治36年)5月12日 生まれ。 1988年(昭和63年)11月12日に死去した日本の詩人です。

 

草野心平は「蛙の詩人」と呼ばれるくらい、蛙の詩をたくさん作っています。

 

1950年(昭和25年)には、「定本・蛙」によって、第1回読売文学賞を受賞。

 

今回は「蛙の詩」の代表作、「春のうた」という詩をご紹介します。

 

【動画】草野心平の詩「春のうた」は、みずみずしい生命讃歌。

 

この詩は何度か改稿されているのですが、以下は 昭和55年版です。

 

 

春のうた

 

かえるは冬のあいだは土の中にいて春になると地上に出てきます。

そのはじめての日のうた。

 

ほっ まぶしいな。
ほっ うれしいな。

 

みずは つるつる。
かぜは そよそよ。
ケルルン クック。
ああいいにおいだ。
ケルルン クック。

 

ほっ いぬのふぐりがさいている。
ほっ おおきなくもがうごいてくる。

 

ケルルン クック。
ケルルン クック。

 

 

いかがでしょうか。この詩の主人公は、もちろん、蛙です。

 

長い冬眠から覚めた時の「命の歓び」を、蛙に託して歌っている、ごく単純な詩であります。

 

しかし、誰でも書けるという意味で単純なのではなく、草野心平以外には書けない、独自の詩空間を創出しています。

 

よく「個性」という言葉が使われますが、この「春のうた」まで来ると、「個性」などという言葉は不要だと感じるほど、完璧な草野心平ワールドを形成しているのですね。

 

「命の歓び」、あるいは「生命讃歌」を概念的な言葉で表現しようとすると白けるのですが、そうした観念語はいっさい使われていないので、皮膚感覚で、いきいきと、たくましい生命の息吹を感じる取ることができます。

 

ほっ」は蛙自身の驚きの声。また「ケルルン クック」という蛙の鳴き声も、詩のライブ感を強めており、実に効果的に機能していますね。

 

「ほっ おおきなくもがうごいてくる」との「くも」は「蜘蛛」ではなく「」であります。

 

蛙の視点からは「いぬのふぐり」が近景、「くも」が遠景なります。さりげなく、かつ効果的に遠近法が使われているので、このあたりも味わいたいものです。

 

当ブログ「美しい詩の言葉」では、草野心平の他の詩もレビューしています。

 

草野心平の詩「秋の夜の会話」

 

草野心平の詩「青イ花」

映画「長崎の鐘」でしか聴けない、藤山一郎の魂から血が噴き出るような絶唱。

今日、8月9日は「長崎原爆の日」です。被爆から74回目、令和初となる原爆の日を迎えました。

 

長崎市に原爆が投下されたのは、1945年8月9日、午前11時2分でした。長崎原爆の死没者は計18万2601人にも及んでいます。

 

そこで本日は、大庭秀雄監督の「長崎の鐘」という映画をご紹介しましょう。

 

映画「長崎の鐘」はこちらで視聴できます

 

感動を呼ぶ、永井隆博士の前向きで献身的な生き様

 

「長崎の鐘」は、1950年(昭和25年)9月23日に公開されました。松竹製作・配給。モノクロ、スタンダード、94分。

 

戦後、日本人によって原爆をテーマにした初の劇映画です。

 

「長崎の鐘」とは、廃墟となった浦上(うらかみ)天主堂の煉瓦の中から、壊れずに掘り出された鐘のこと。

 

映画は永井隆(ながいたかし)が執筆した随筆「長崎の鐘」が元になっています。

 

この随筆は、長崎医科大学(現長崎大学医学部)助教授だった永井隆が原爆爆心地に近い同大学で被爆した時の状況と、右側頭動脈切断の重症を負いながら被爆者の救護活動に当たる様を記録したもの。

 

1949年(昭和24年)1月、日比谷出版社から出版され、紙不足の当時としては空前のベストセラーとなりました。

 

映画「長崎の鐘」の主人公は永井隆。若原雅夫が演じています。妻役は月丘夢路

 

1950年代は日本映画の全盛期で、数多くの名作がこの時期に生み出されています。

 

この「長崎の鐘」は映画作品として傑作とは言えないかもしれませんが、純度が実に高く、感動できる作品であることは間違いありません。

 

この映画が名作として高く評価されていない理由の一つに、製作された時の特殊な事情が影響しています。

 

1950年といえば、まだGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による厳しい言論統制(検閲)が行われていた不幸な時期です。

 

「長崎の鐘」に反戦色が濃くない、表現に今一つ社会的な踏み込みが浅い、原爆のリアリティが薄い(生々しい描写がない)などの作品としての弱さは、GHQによる検閲の影響があるのは容易に想像できます。

 

この映画で最も感動できるのは、主人公である永井隆博士の真っ直ぐな生き様です。永井隆博士の前向きな姿勢、献身的な行動、人への愛情に、未来への希望と勇気、「なぐさめ」と「はげまし」をもらえます。

 

そして、忘れてはならないのは、映画本編で歌われる「長崎の鐘」の凄まじいいまでの迫力です。

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原爆の日に、新藤兼人の映画「原爆の子」の静けさを想う。

今日、8月6日は「原爆の日」。アメリカ軍は、1945年8月6日に日本の広島に、8月9日には長崎に原爆を投下しました。8月6日を「広島原爆の日」、8月9日を「長崎原爆の日」とも呼びます。

 

あれから74年経った日本は、記録的な猛暑にあえいでいます。

 

あれこれと迷った末に、新藤兼人(しんどうかねと)監督の「原爆の子」を見ることにしました。

 

最初にこの映画「原爆の子」に関するデータをご紹介。

 

「原爆の子」(げんばくのこ)は、1952年(昭和27年)8月6日公開の日本映画。監督は新藤兼人、主演は乙羽信子

 

原作は、長田新(おさだあらた)が編纂した作文集「原爆の子〜広島の少年少女のうったえ」。戦後初めて原爆を真正面から取り上げた映画

 

実は、その2年前の1950年(昭和25年)9月23日に、映画「長崎の鐘」(ながさきのかね)が公開されている。

 

監督は大庭秀雄。脚本は、新藤兼人、光畑硯郎、橋田壽賀子が担当。戦後、日本人によって原爆を題材にした劇映画第1号。

 

GHQによる検閲の為、原爆及び被爆状況などについて正面から取り上げることが出来ず、永井隆博士の伝記映画という形で製作。

 

「原爆の子」は1953年(昭和28年)、カンヌ国際映画祭に出品。後に公開された外交文書あるいは外務省文書において、当時の日本政府はこれを好ましく思っていなかったこと、アメリカの圧力により外務省が受賞妨害工作を試みたこと、逆にカンヌでは高い評価を得ていたことなどが判明。

 

1954年(昭和29年)には第8回カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭で平和賞、1956年(昭和31年)には第10回英国アカデミー賞で国連平和賞やポーランドジャーナリスト協会名誉賞など多くの賞を受賞し、世界において反核映画の第1号となる。

 

現在もこの映画はヨーロッパで度々上映されている。アメリカでは1995年(平成7年)にカリフォルニア州の大学の博物館で上映、2011年(平成23年)にはニューヨークブルックリン区で上映

 

また、監督の新藤兼人のデータも。

 

新藤 兼人(しんどう かねと)は、1912年(明治45年)4月22日、広島県佐伯郡石内村(現・広島市佐伯区五日市町石内)生まれ。日本の映画監督、脚本家。 2012年(平成24年)5月29日に死去。享年101歳

 

では、「原爆の子」を見た私の感想を、以下で記しておきます。 この記事の続きを読む