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映画「人間の証明」に角川映画のエッセンスが凝縮されていた。

今回数年ぶりに、映画「人間の証明」を見て、いろいろ感じるところが多かったので、そのことについて書いてみることにします。

 

映画「人間の証明」は、1977年公開されました。製作会社は角川春樹事務所。

 

人間の証明

 

この映画「人間の証明」を見ていると、松本清張の「砂の器」と「ゼロの焦点」のイメージがときどき重なってきました。

 

戦後の荒廃した時代背景、自分の栄光を守るための殺人事件、地名や発音に関わる言葉の解読といった、数々のミステリ(推理小説)的小道具の存在などなど……。

 

しかし、ここで明確にすべきは、角川春樹が製作した佐藤純彌監督の「人間の証明」と野村芳太郎監督の「砂の器」や「ゼロの焦点」との決定的な相違点です。

 

野村芳太郎の描いた松本清張的な世界は、もちろん推理小説的な要素は散りばめられていますが、あくまで人間ドラマとしての映画作品として極めて高い質を誇っているのです。

 

一方、角川映画である「人間の証明」には、人間ドラマの要素は入っていますが、エンターテイメントの装置や小道具の方が目立つ、いわゆるB級映画にほかなりません。

 

かといって、映画「人間の証明」をおきおろすつもりは私には全くなく、むしろ、そこにふんだんに盛り込まれたエンタメ要素を楽しめる、気持ちのゆとりが今の自分にはあると確認した次第です。

 

では、映画「人間の証明」の魅力について、書き出してみることにしましょう。

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「体言止め」の長所と短所をまとめました。

体言とは名詞や代名詞などのこと。この体言で文を終えることを「体言止め」と呼びます。

 

文章の出来不出来を、プロとアマとで比較しますと、もっとも顕著にあらわれるのが、文章のリズムです。文章を心地よいリズムで書くには、語尾の変化が重要。語尾変化で欠かせないのが、体言止めにほかなりません。

 

要するに、体言止めをつかうと語尾のバリエーションが増え、文章のリズムが良くなるのです。

 

では、さっそく体言止めを、例文で具体的に見ていただきます。

 

私がいちばん好きな花は紫陽花です。梅雨時に気持ちが滅入っていても、この花を見ると、なぜか元気になれます。

 

では、上の文を体言止めを使って書き換えてみましょう。

 

私がいちばん好きな花、それは紫陽花。梅雨時に気持ちが滅入っていても、この花を見ると、なぜか元気になれます。

 

古い文章作法の本を読みますと、「体言止めは使わない方が良い」と書かれている場合があります。

 

使わない方が良い場合も確かにありますが、使った方が良い時もあるのです。

 

Web文章の場合は、体言止めは使わざるを得ません。

 

というのは、ブログに「ですます調」で文章を書く場合、文体を軽妙かつリズミカルに保つためには、1回や2回は、体言止めを使う必要が出てくるからです。

 

「です」と「ます」を交互に繰り返していると、どうしても一本調子になり、リズムが悪くなってしまいます。

 

体言止めを使うべきではないと戒めるのは、体言止めを使いすぎると、文章が軽くなったり、品格が失われることを怖れるからです。

 

しかし、Web文章の場合は、ほどよい軽さは不可欠であり、品格よりも親近感の方を求められるケースが多いので、体言止めは、効果的に使うべきであるというのが私の考え方です。

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映画「明日の記憶」では、渡辺謙と樋口可南子の演技力が際立っていました。

渡辺謙が主演している映画とドラマはすべて見ようと思っているのですが、うかつにもこの映画明日の記憶」は未見でした。というか、かなり前に見ようとして途中で挫折していたのです。

 

今回は、挫折どころか、最後までのめり込んで鑑賞できました。

 

20006年の映画。監督は堤幸彦。アルツハイマー病にかかった夫とその妻の物語。原作は荻原浩の同名の小説。

 

似たような映画やドラマは少なくありませんが、その中でもかなりシリアスに描かれた映画です。

 

症状が次第に重くなってゆく過程が緻密に描かれていて、時に見ているのが辛いこともありました。

 

当然かもしれませんが、この映画では、一つの解決策や結論とかは明らかにはされません。

 

アルツハイマー病は現在の医学では治すことはできません。自然と和合するように、アルツハイマー病にかかったことを運命として受け入れる、そのことだけが唯一の救いであると、静かに語っているとラスト20分間を見て感じました。

 

前半の広告代理店など現代の都市文明が活写され、ラストでは夫婦が大自然に抱かれ、そこに溶け込んでゆくように描かれているのは、見事でしたね。

 

ただ、この映画「明日の記憶」では、夫役の渡辺謙も、妻役の樋口可南子も、誰も、悟りめいたことは言葉にしません。最後まで、妻は夫の症状の悪化に戸惑い続けるし、夫も無力にも病気の進行に押し流されてゆきます。

 

そうした、言葉で説明していないことが、この映画「明日の記憶」の映画としての完成度を高めているのではないでしょう。

 

当然、こうした映画では、役者の高い演技力が不可欠となります。渡辺謙の迫真の演技が素晴らしいのはもちろんですが、樋口可南子の抑制の効いた(気負いのない)繊細な表情の作り方は秀逸でした。

 

渡辺謙は壊れてゆく過程をリアルに演じているのに対し、樋口可南子は壊れてゆく夫の変化に反応する妻の心情の揺れを表現しています。

 

そのように考えると、本当の主演は渡辺謙ではなく、樋口可南子であることに気づいたのでした。

 

ともあれ、渡辺謙と樋口可南子の演技が堪能できるだけでも、この映画「明日の記憶」は見る価値があると言えるでしょう。