今回数年ぶりに、映画「人間の証明」を見て、いろいろ感じるところが多かったので、そのことについて書いてみることにします。
映画「人間の証明」は、1977年公開されました。製作会社は角川春樹事務所。
この映画「人間の証明」を見ていると、松本清張の「砂の器」と「ゼロの焦点」のイメージがときどき重なってきました。
戦後の荒廃した時代背景、自分の栄光を守るための殺人事件、地名や発音に関わる言葉の解読といった、数々のミステリ(推理小説)的小道具の存在などなど……。
しかし、ここで明確にすべきは、角川春樹が製作した佐藤純彌監督の「人間の証明」と野村芳太郎監督の「砂の器」や「ゼロの焦点」との決定的な相違点です。
野村芳太郎の描いた松本清張的な世界は、もちろん推理小説的な要素は散りばめられていますが、あくまで人間ドラマとしての映画作品として極めて高い質を誇っているのです。
一方、角川映画である「人間の証明」には、人間ドラマの要素は入っていますが、エンターテイメントの装置や小道具の方が目立つ、いわゆるB級映画にほかなりません。
かといって、映画「人間の証明」をおきおろすつもりは私には全くなく、むしろ、そこにふんだんに盛り込まれたエンタメ要素を楽しめる、気持ちのゆとりが今の自分にはあると確認した次第です。
では、映画「人間の証明」の魅力について、書き出してみることにしましょう。
●麦わら帽子、西条八十詩集、「キスミー」などの、謎を秘めた小道具の魅力
殺人現場付近に落ちていた麦わら帽子が、殺された黒人男性が持っていた西条八十詩集、男が口走った「キスミー」という言葉など、物語の冒頭で、数々の謎が提示されます。
それらが、物語の進展とともに、つながってゆくのですが、これは原作小説を書いた森村誠一のうまさですね。
●西条八十の詩の一節「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね」がキャッチフレーズに
「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね ええ、夏、碓氷から霧積へ行くみちで 渓谷へ落としたあの麦藁帽ですよ…」という西条八十の詩集に収められている「僕の帽子」の一節が、小道具として絶妙な効果があげています。
⇒「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね」という詩については、こちらで詳述しました。
この「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね」は、映画CMのキャッチフレーズに使われました。
映画をキャッチフレーズで本格的に宣伝するという手法も、角川映画が確立したと言えるでしょう。
●豪華キャストとニューヨークロケ
松田優作、三船敏郎、鶴田浩二、ジョージ・ケネディなど、豪華な俳優陣も魅力の一つ。また、当時としては珍しいニューヨークロケが敢行され、作品にスケールを与えています。
●偶然が乱発する無理のある設定と展開も、B級映画ならではの味に
設定も展開も、かなり無理があります。しかし、それらも、B級映画にある「味」だと割り切れば、けっこう楽しめてしまいます。
●戦争による荒廃と経済成長による繁栄、富裕と貧困という対比(格差)
極端な格差やギャップは、人にとって、時には快感となります。光の影、繁栄と貧富、生と死などなど……。この映画「人間の証明」には、これでもかとばかりに、対比を活かした表現手法が繰り出されます。