金子みすゞの詩の感想文(レビュー記事)を私のブログに毎日書いております。
今日も感想文を書こうと思ったのですが、ふっと打ち沈んだ気分になり、鬱の兆候ではないかと思うほど、私の心は大きな鉛の玉を抱えたまま、深い井戸の底に落下してゆく……。
これはマズイと察知し、今日は金子みすゞの詩のレビューは、書くまいと思い、この日誌を書いている次第です。
しかし、どうして、突然、これほどまでに沈鬱な気分になってしまったのか?
おそらくは、私自身の金子みすゞへの依存心が、私を奈落の底に落とそうとしているのです。
金子みすゞの詩を読み、感想文を毎日書いていれば、私は幸せに暮らせる、そんな錯覚を覚えていたのだと思います。
それは正に思い違いであり、逃避であり、甘えなのです。
金子みすゞは、多くの詩人がそうであるように、若くして生涯を閉じています。
しかも、自殺でした。
金子みすゞの一生は決して幸福と呼べるようなものではありません。
生きているうちには、詩集は一冊も出版できませんした。
私は何を言おうとしているのでしょうか。
金子みすゞの詩を読み、感想文を書くだけでは、何も変わらない。
金子みすゞの詩は私たちに手渡された、光のバトンです。
この光のバトンを、生かすも無駄にするのも、私たちの行動次第。
私自身が心がけるべきは「生きること」、もちろん、ただ生きるのではなく、あるがままをそのままを受け入れて生きること、つまり自分の運命を愛し、それを全うすること。
幸運にも、金子みすゞの詩は全社の教科書に掲載されたことで、大きな広がりを見せています。
要するに、金子みすゞの詩に触れる機会は、少しずつ増えていることは間違いないでしょう。
しかし、ここからが大事なのです。
金子みすゞの人気は日本国民に浸透しつつありますが、日本全体に、文学や芸術文化を愛し、大事にし、広めてゆこうという機運は感じられません。
言い換えるならば、日本は今、深刻な心の貧困化にさらされているのです。
みすゞのくれた「光のバトン」は、以下の二つがかなえられなかれば、意味がないのです。
【公的活動】国民の多くが、商業主義によって量産される低俗な娯楽に浸るのではなく、真に豊かな精神文化を愛し、育んでゆけるような環境や社会を、政治・教育・共同体(パブリック)を含めて実現してゆくこと。特に文化を尊重する政治に変えること。
【私的活動】バトンを手渡された、即ち、みすゞの詩を読んだ人(パーソナル)は、人々の哀しみに寄り添い、命を慈しみ、人々の違いを認め、あるがままをそのままを受け入れて(運命を愛して)、明るく、楽しく、優しく、ひたむきに暮らすこと。
詩人の谷川俊太郎が「芸術は消費するものではない」と言っています。
その通りで、芸術は、消費するものではなく、心・精神・魂の糧とするものです。
心の糧となるほど良質な芸術が見当たらないことも含め、現代社会を今とは違う方向に進めてゆくべきだと私は思っています。
その思いと考えを「詩心回帰」としてまとめたのですが、私の力不足もあり、なかなか広がってゆきません。
⇒詩心回帰
今後は私自身、決して、金子みすゞの詩にもたれかかることのないよう、自分を律してゆきたいと、今回の落ち込みで痛感しました。
もちろん、素直に、何の先入観もなく、金子みすゞの詩を味わう、そのことは大事にしてまいります。
しかし、心の貧困という問題を解消に、豊かな精神文化が咲き誇る日本に変えてゆくのは容易ではありません。
覚悟を持ち、前向きに継続して、発信してまいります。
最後に繰り返します。
金子みすゞの詩は私たちに手渡された、光のバトンです。
私は以前、「バトン」という言葉を以下の映画のレビューで使ったことがあります。
⇒映画「1/4の奇跡~本当のことだから~」は、視聴者に渡された未来へのバトン…
金子みすゞのその他の詩はこちら⇒金子みすゞの詩一覧
金子みすゞの詩の世界について、こちらのページではさらに踏み込んで、語らせていただきました。