黒澤明「七人の侍」の感想

  • 黒澤明

黒澤明監督の「七人の侍」。ああ、この不滅の名作について、まだ何も語っていなかったですね。

 

黒澤明関連の本を読むと、この作品の制作における興味深いエピソードが数多く語られています。

2~3冊くらいは、黒澤に関する本を手元に置いておくと、映画の構造とか、すごく基本的なこととか、それに何より映画とはこんなに素晴らしいもので、昔の映画の中にはこれほどまでに偉大な作品があるのかを知ることができます。

 

映画監督を目指している方はいろんな専門書も読まれるでしょうが、黒澤の映画を徹底的に見ると、ずいぶん得るところが大きいでしょねえ。

 

実は、もうこの名作については何も語ることがないんです。ただ、見てくださいとしか言いようがないという気がします。

 

でもでも、何か一つくらいは話さないというわけで、今回は「映像の象徴性と人間の想像力について」語りたいと思います。

 

七人の侍』(しちにんのさむらい)は、1954年(昭和29年)に公開された日本映画である。監督は黒澤明。

シナリオやアクションシーン、時代考証などを含めて高い評価を得、その後の多くの映画作品に影響を与えた。

 

時は戦国時代。百姓に雇われる形で集った七人の侍が百姓との軋轢を乗り越えながら協力し、野武士の一団と戦う物語。

 

前半部と後半部に分かれ、前半部では主に侍集めと戦の準備が、後半部では野武士との本格的な決戦が描かれる(引用元:ウィキペディア)。

 

「映像の象徴性と人間の想像力について」などというと大げさですが、本当は簡単なことなんです。

 

この「七人の侍」を映画館で見た方はおられますか。

僕は一回だけ、映画館で見ましたが、画面が小さいんです。音も広がりがないんです。

ううむ、これはどうかなあと思いつつ見ていました。

 

そうすると、もう最後のほうは、がんがんに作品世界に没入して、感動しまくり、会場を出てからも、後をひきまくっていました。

 

何を喋りたいかと言いますと、要するに僕たちは映画を見ている時に、映像だけを見ているんじゃないんです。見ながら、いっぱい想像してるんです。

 

いい映画は、見る人にたくさん想像させてくれる作品だと信じています。

つまり、映像とか音とかは、シンボルなんですね。心的世界を深め、切り拓いてくれるきっかけを作ってくれるだけです。

 

その意味で、映画自体は5割くらいしか語っていないとも言えます。残りの5割は僕たちが想像力をたくましくして、埋めてゆくというか、広げてゆくのだと思います。

 

小林秀雄という近代日本が生んだ最高の評論家がいますよね。彼の名作に「モオツァルト」があります。何と驚くなかれ、彼はモオツァルトを蓄音機で聞いたというのです。

あのラッパのついた古い機械ですよ。それでも彼は「モオツァルト」で、あの天才の精髄までをも描き出しているんです。

 

要するに、音とか映像の質は良いにこしたことはないけれども、想像力で充分におぎなえるというわけ

 

というか、想像力が動き出さないと、感動はできません。

 

CGとかSFXとかが進化しても、ハリウッド映画が乱発する作品のほとんどが、アナログの名画にかなわない皮肉について、僕は機会を改めてじっくり考えてみたいなあと思っています。

 

長くなってしまいました。具体的な話はできませんでしたね。でもいいんです。本当に好きな作品については、あまり語りたくない、そんな時もありますよね。喋ってしまうと、何か大切なものがなくなってしまうような気がして…。

 

体全身を目にして、体全身を耳にして、没入したくなる数少ない傑作「七人の侍」。
僕はこれからも、毎年のようにこの名作映画を、繰り返し見続けるだろうと思います。

カテゴリー
タグ

ピエトロ・ジェルミ監督「鉄道員」の感想

今回ご紹介する映画「鉄道員」は、名画という呼称がこれほど似合う作品はない…そう言いたくなるほどの秀作です。

監督は、主演の父親役を演じたピエトロ・ジェルミです。

鉄道員

1956年 イタリア
監督:ピエトロ・ジェルミ
出演:ピエトロ・ジェルミ、ルイザ・デラ・ノーチェ、エドアルド・ネヴォラ、シルヴァ・コシナ、カルロ・ジュフレ

戦後イタリアを舞台に庶民の家族愛を少年の視点から描き、
哀切極まりないテーマ曲と共に多くの映画ファンを涙させた永遠の名作。
監督自ら演じる機関士も素晴らしいが、いたいけな眼差しのサンドロ少年(エドアルド・ネヴォラ)の愛くるしさと、純真なモノローグがたまらない。
1956年カンヌ映画祭国際カトリック事務局賞受賞。
'58年には日本でも543館で公開され大ヒットを記録。
その年の「キネ旬」ベストテンの読者部門で見事第1位に輝いた(引用元:Amazon)。

テーマは家族愛。
古典映画としての風格と美意識、高い完成度を有した傑作中の傑作です…そんなありきたりな賛美の言葉がむなしく感じられるほど、この映画は、まさに映画としての確固たる存在美を誇っています。

この映画には抽象的なところが全くなく、庶民の生活を温かな眼差しから映し出しています。

こういう描き方は、映画の王道ですが、実は最も難しいと言えます。
なぜなら、映画としての技術力もさることながら、何よりも人間への尊敬と愛情の豊かさが、フィルムに格調を与えているからです。

言い換えると、制作者の人となり、人間性なくして、生み出しえない、映像美と物語性が、輝いているからです。

映画の方法論を超えた人間としての力と愛を実感させてくれる稀有な名作だと言えます。

ともすれば、ベタベタになってしまいがちなのに、どうして、これほどまでに自然に、作品世界へと鑑賞する側が没入できるのでしょうか?

それは、やはり、優れた映画作品の条件を、総合的に満たした映画だからなのでしょう。

役者の魅力がまず素晴らしい。
子役ば可愛らしい。
頑固で寂しがり屋の父親がいい。
慈愛に満ちた母親の表情は忘れがたい。
美しく薄幸な長女、
頼りのない気弱な長男…。

モノクロームの映像の美しさ。

さりげないけれど、観る者をひくつけるカメラアングル。

そのカメラワークは、人間の視線を想わせるほど自然で、
しかも、人間への愛情があふれている。

哀感ただよう繊細な映画音楽……

以上のように、この「鉄道員」の美点は、あげてゆけばきりがないほどあるのです。

つまり、映画としての総合力が高いということに他なりません。

家族愛をあつかいながら、決してセンチメンタルに流れておらず、ヒューマニズムとリアリズムが、物の見事に融合していると言えるでしょう。

名作映画と言われる作品は多いのですが、完成度が高い上に、観終わった後に、深い寂しさと温もりが余韻として味わえる極めて貴重な映画です。

ルキノ・ヴィスコンティ監督「白夜」の感想

今回ご紹介するのは、ルキノ・ヴィスコンティ監督の「白夜」です。

1957年・伊。監督:ルキノ・ヴィスコンティ
原作:ドストエフスキー。
出演:マルチェロ・マストロヤンニ、マリア・シェルほか。
ドストエフスキー初期の短篇を、十九世紀のペテルブルグから現代イタリアの港町に舞台をかえて、「夏の嵐」のルキノ・ヴィスコンティが監督、彼と、同じく「夏の嵐」の女流脚本家スーゾ・チェッキ・ダミーコが脚色。

DVD情報⇒白夜 [DVD]

(あらすじの一部)
イタリアのある港町。ここへ転勤してきたばかりの青年マリオ(マルチェロ・マストロヤンニ)が夜の小路を散歩していると、運河の橋際に立つ一人の少女(マリア・シェル)を見つけた。女は泣いていた。マリオは好奇心にかられ、見知らぬ町での狐独な自分を慰めるためにも、この女に声をかけた。彼女は大きな悲しみに打ちひしがれているかに見えた。マリオは自己紹介をして、断わる彼女を家まで送り、翌晩の再会を約して別れた…

映画の素晴らしさの一つには、別世界に連れて行ってくれる力がある。つまり魔法。こんなに奇麗な幻ならば、いつまでも浸っていたいと思う。

何というセンチメントだろう。映画とはこれほど純粋なものだったのか。雪が降る中、ボートの上で、シェルが両手を空に向けて広げるシーンは忘れられない。

ワンカット、ワンカット、監督の美的センスの非凡さを感じさせる。

キャロル・リードの「邪魔者は殺せ」がモノクロの映像美の最高峰だと自分なりに思っていたが、ヴィスコンティの「白夜」は、黒と白のコントラストを活かすことはもちろん、ハーフトーンの使い方もデリケートで、柔らかな味わいを付与している。

美意識という点では、ヴィスコンティの方がより耽美的だ。と言うより質が違う。
キャロル・リードは映像は硬質である。ヴィスコンティのモノクロ映画は表現力が豊かであり、芸術を謳歌している高邁な遊び心が映像に反映されている。己が才気に浸り、伸び伸びと腕を振るっているのが伝わってくる。
耽溺できる豊穣な才能が羨ましい。

残酷な結末。完璧なエンディングである。

原作を読んでいない人は、映画を先に見ることをお奨めしたい。それほど、このモノクロ映画の完成度と透明度は高い。