瑠璃~風花未来の詩31

今回の風花未来の詩は「瑠璃」です。

 

瑠璃

 

人は誰も

胸にできた大きな空洞を埋めるために

長い年月をついやすのかもしれない

 

空を見上げた時

鳥がわたってゆくのを見つけると

ハッとすることはないだろうか

 

雲ひとつない

澄みきった空を見上げる時

私はいつも何かを探している

そんな気が

かなり前からしていたのだが

今日ふと見上げた

瑠璃色の空から降りてきた

遠い記憶が

私が失くしたものをつれてきた

 

あのコーヒーを初めて飲んだのは

もう20年以上も前のこと

だが 今もなお

その時の記憶は薄れることはない

 

初めて入った店で

一杯のコーヒーを飲むと

なぜか 泣けてきた

無性に泣けてきて

涙がなかなか止まらなかった

 

カフェ好きで

コーヒー好きで

無数のコーヒーを飲んできた私だが

泣いたことはなかった

 

コーヒーで泣けることが

信じられなくて

何かを激しく信じはじめている

自分が怖ろしくて

その日から

毎日 同じ店に出かけて

同じコーヒーを注文した

 

ふつうのコーヒーと

どこが違うのか

はつらつとした

若い女性店主に

それとなく聞いてみた

 

豆は自分で海外に買い出しに行く

豆は適正の温度で保存

お湯の温度も厳密に

着色料などの添加物のない

ペーパーフィルターを使う

そして何よりも

一杯いっぱい精魂を込めていれる

 

みずみずしい夢を語るかのように

笑顔で説明してくれただけでなく

コーヒーのいれ方を

一枚の紙に

ていねいに書いてくれた

 

それでも私は納得しなかった

店主の説明どおりにいれても

一杯のコーヒーが

人の心までを

揺り動かしはしないだろう

 

およそ半年間

毎日通いつづけたが

数日間だけ

風邪をひいて行けなかった

 

風邪が治り

店に行ったら

店主はやめていなかった

店員の話では

急に海外に旅立ったという

 

その数か月後

胸にできた大きな空洞を

抱えたまま私は

その街を去った

店主のかわったカフェは

数か月後に閉店したという

 

私はあの頃の喪失感をもとに

あの店主とは全く関係のない

「瑠璃」という物語を書いた

瑠璃色の空を見上げ

大切なものを失くしてしまって

途方に暮れている

青年の語りから物語は始まる

 

あれから気が遠くなるほど長い間

晴れた空を見上げるたびに

私は大事なものを探してきたのだろう

 

あのコーヒーの味の秘密は

永久にわからないと

あきらめたまま 時は流れた

しかし ようやく最近になって

あの謎のもつれた糸が

ほどけ始めた

 

つい先日

病棟で見た

瑠璃色の千羽鶴

 

千羽鶴の中の

一羽の鶴

今にも舞い上がりそうな

うるわしい鳥

 

あの女性店主は

ひとつことを懸命に祈る

幸せにあれかしと願い

無性の愛を惜しげもなく注ぎつづける

鶴の化身だったのではないか

 

あの人は

私が彼女の秘密を知るはずはないのに

突然 私の眼の前から消えた

昔話の中の鶴と同じように

空に飛び立って行ったのかもしれない

 

そういう

お伽噺に似た想いしか

今の私には信じられない

お伽噺の中の不思議な力こそが

現実に奇跡を起こすと信じようとしている

 

あの鶴の化身は

空に消えて久しいが

瑠璃の化身

その祈りは

今も私の中に息づいてる

 

私の胸の空洞は

ようやく埋まった

これからは

晴れた空を見上げても

何も探しはしないだろう

カテゴリー
タグ

映画「朝の波紋」こそ、日本映画の至宝である。

朝の波紋」は、1952年に公開された日本映画。

 

監督は五所平之助(ごしょ へいのすけ)。主演は高峰秀子池部良

 

映画「朝の波紋」はこちらで視聴可能です

 

先ほど見終わったのだが、日本映画のオールタイムのベスト1に推したいくらいの感銘を受けた。

 

清冽かつ心温まる抒情詩のような映画である。

 

高峰秀子が主演した映画はいろいろと見てきてはいるが、この「朝の波紋」の高峰秀子が最も美しいのではないかと感じた。

 

テーマは純粋だ。「愛すること、生きること」である。

 

池部良は、瘦せていて、後の池部良とは顔相が違っていた。

 

洗練されすぎておらず、浮世離れしたキャラの本作には合っていたと思う。

 

小林正樹の初期作品にも、このような清潔な映画「美わしき歳月(1955年)」があるが、やはり1952年という時代の繁栄だろうか。

 

小林正樹監督の「美わしき歳月」のレビュー記事へ

 

何しろ、戦後7年しか経っておらず、復興期の貧しさ、侘しさが滲み出ている。

 

そうした時代だからこそ、温かな愛情、ささやかな幸せ、淡い希望が、人々には必要だったのだ。

 

映画作品として大傑作ではないが、この「朝の波紋」を、私は推しつづけたいと心に決めた。

 

心が渇ききっており、本物の温もりを忘れかけている現代にこそ、この「朝の波紋」に流れる、清き愛情が不可欠なのではないだろうか。

市川雷蔵が主演した映画「好色一代男」は、増村保造監督ファンなら必見だが…

増村保造監督の映画「好色一代男」を鑑賞。増村映画は全作見てやろうと思い立って、その世界に没入した時期が私にはかつてあった。

 

しかし、なぜか「好色一代男」は未見だった。私はシリアスな悲劇を好む傾向が強いためだろうか。

 

映画「好色一代男」(こうしょくいちだいおとこ)は、1961年(昭和36年)に公開された日本映画である。

 

主演は市川雷蔵

 

若尾文子はラスト10分ほど、友情出演のような感じで登場する。若尾文子はこの映画では、決して市川雷蔵の相手役という位置づけではないので、鑑賞前に知っておくべきかもしれない。

 

映画「好色一代男」はこちらで鑑賞可能です

 

今回、初めて鑑賞したが、いわゆる「増村節」のこぶし回し(独特の美意識による演出)が凄まじく、増村保造監督の愛好者ならば必見の価値ありだ。

 

しかし、増村監督の思い込みや趣味が(本来は芸術に必須の抑制と均衡は破ら得れていて)露骨に出ており、普遍的な価値をどれだけ表出し得ているのかは、はなはだ疑問である。

 

そもそも、増村保造監督は「普遍的な女性像」は描いてはいない。

 

他の監督では描き得ない、独自の女性像を描いたが、そこには独断の偏見が満ち満ちていて、「増村さん、あなたは、本当に女性というものを知っているんですか?」と突っ込みを入れたくなる時がある。

 

女性像がデフォルメされすぎており、時にその露骨な表現は「幼稚」だと感じざるを得ない。

 

で、私の好みから言えば、面白かったし、充分に楽しめた。

 

他の増村作品と比べれば、完成度は低いが、この「ハチャメチャさぶり」も、増村節の真骨頂なのである。

 

それにしても、主演の市川雷蔵、その芸幅の広さには舌を巻かずにはおれない。