吉田喜重監督の映画「戒厳令」は二・二六事件を映像詩として独自表現

映画「戒厳令」は、1973年に公開された日本映画。

 

監督は吉田喜重(よしだよししげ)。

 

主演は三國連太郎

 

映画「戒厳令」はこちらで視聴可能です

 

二・二六事件により処刑された北一輝を軸に展開される。

 

が、しかし、この映画を見ても、北一輝がいかなる人物なのかは、まったくわからないだろう。

 

また、二・二六事件って、そもそもどんな事件で、結局、どうなったっけ?という基本事実も、まるで伝わらない。

 

それは、この映画「戒厳令」は、そういう基礎知識を伝えるつもりは、初めからないということだ。

 

この吉田喜重監督の映画「戒厳令」は、明確な思想とか、明文化できるメッセージを込めてはいない。

 

吉田喜重監督の大胆なカメラアングルが象徴しているのだが、この映画は歴史映画でなく、思想映画でもなく、映像による散文詩である。

 

ニュートラルな心理状態で、詩として鑑賞すれば良いと、私は思っている。

 

また、そういう鑑賞法しかないではないか、と感じざるを得ない映画だ。

 

吉田喜重節とも言える、大胆なカメラアングルには、独特の快感がある。

 

独自のアングルが、独自の映像空間、映像宇宙を生み出していて、言葉で説明できる概念を拒絶し、映像による絶対世界を確立しているかに見える。

 

それこそが、吉田喜重の映像哲学であり、詩学であり、美意識なのだ。

 

つまり、意味性と求めるのは、そもそも愚かなのである。

 

まあ、語りだすとキリがないが、要するに、映像による散文詩、叙事詩であり叙情詩なのだ。

 

私としては、独特のアングルが生み出し快感が得られるかぎり、吉田喜重監督の映画を見続けるであろう。

 

 

 

あの瞳~風花未来の詩84

風花未来の今日の詩は「あの瞳」です。

 

  • 風花未来が、風花未来の詩について動画で語りましたので、ぜひとも、ご視聴ください。

 

⇒【動画】風花未来が自身の詩について激白!

 

あの瞳

 

一点の曇りもない

澄みきった瞳

 

澄んでいるだけでなく

明るく輝いていた瞳

 

あの瞳が

まだ

私の心を

照らしている

 

あの瞳があるかぎり

私は生きられる

歩く人~風花未来の詩83

風花未来の今日の詩は「歩く人」です。

 

  • 風花未来が、風花未来の詩について動画で語りましたので、ぜひとも、ご視聴ください。

 

⇒【動画】風花未来が自身の詩について激白!

 

歩く人

 

歩く人になりたい

 

じょうずに

かっこうよく

腕を振って

脚を上げて

グイグイと

前に進みたい

 

ヨロヨロではなく

フラフラでもなく

ヨボヨボでは

絶対になく

 

力強く

伸びやかに

大地を蹴り上げて

ワッセワッセと

前進したい

 

正直に

まっとうな

歩き方をしたい

 

歩くのが

苦手ではなく

得意になりたい

ルンルン

ウキウキの

スキップは

無理だろうけど

 

ヨチヨチ歩きは

卒業したい

 

じょうぶになって

元気になって

スイスイ進んで

自分のことを

「歩く人」と

呼んでみたい

 

まっすぐに

軸をぶらさず

自分らしくなれる道を

歩きつづけたい