金子みすゞの「蜂と神さま」という詩をご紹介します。
【動画】金子みすゞの詩「蜂と神さま」の朗読。風花まどか大学の「詩学」のことも…
蜂と神さま
蜂はお花のなかに、
お花はお庭のなかに、
お庭は土塀のなかに、
土塀は町のなかに、
町は日本のなかに、
日本は世界のなかに、
世界は神さまのなかに。
そうして、そうして、神さまは、
小ちゃな蜂の中に。
金子みすゞの「視点移動と空間(宇宙)感覚」が、ときめきにみちた新鮮な世界を現出
金子みすゞが、この詩「蜂と神さま」で示した、視点と空間(宇宙)感覚が、素晴らしい。
この視点の動きと、空間をとらえる感覚は、詩人特有のものですが、金子みすゞの場合は、際立って優れています。
蜂⇒お花⇒お庭⇒土塀⇒町⇒日本⇒世界⇒神
このように金子みすゞは「蜂と神さま」で、視点をひきつつ、より大きな空間をとらえてゆく。
「視点」を、映画のカメラで考えるとわかりやすくなりますよ。
蜂をクローズアップで映していたのを、カメラを次第にひいてゆき、世界全体を映し出し、最後には、カメラで映し得ない、神様視点にまで至っています。
そして、見事なのは、最後。
極大の視点であったはずの神様視点は、蜂の中という極小の視点にまで、一気に移行してしまいました。
極大から極小への視点移動が、神がかった快感を生み出したわけです。
詩人は時間と空間に関する感覚が、常人とは異なる。時間を空間を自由に移動できる、優れた「時空感覚」を有しているのです。
このことについては、他の詩作品のレビューでも、何回も語りました。
問題は、実は別のところにあります。この問題は、私個人の問題なのですが、ひょっとすると他の人にも当てはまるかもしれません。
先ほどまで感じていた、書きたいと思っていたことを、先取りされたという感覚
先ほどまで自分が感じていて、詩に書いてみたいと思っていたことを、金子みすゞに先を越されて(書かれて)しまった、そんな感じのする詩が、実は金子みすゞには多いのです。
だから、金子みすゞの詩に、強い共感を覚えるわけです。
しかし、その一方で、「やられた」「先取りされた」「先手をとられた」「先を越された」というふうな、喪失感、あるいは挫折感に近いものを覚えるのです。
これは、嬉しい喪失感ですけどね。嬉しい悲鳴に近い感覚。
小説家のスティーヴン・キングは、優れた作家の小説を読むと「打ちのめされる」と書いています。
金子みすずの詩んだ時の強い感銘は、打ちのめされるというよりも、アッと驚いて、空いた口を閉じるのを忘れてしまうような、とびっきり純粋なサプライズと形容すべきでしょうか。
金子みすゞは、ど真ん中、まん真ん中を射貫く名人ですね。的をはずす(射た矢が的からそれる)なんてことはありません。
金子みすゞの詩に「ハズレなし」。
「うんうん、確かに、そういうことってあるよね」「それそれ、そのことを言いたかった、共有したかった」「あっ!? どうして、それがわかるの? 私がいま口に出そうと思っていたことなのに」……そういうことを金子みすゞは、詩にしてくれているので、ありがたいような、ありがた迷惑のような……(苦笑)。
それにしても、金子みすゞの詩にから受ける「先越され感覚」には、鮮烈、いや、激烈なものがありますね。
※金子みすゞのその他の詩はこちら⇒金子みすゞの詩まとめ