堀口大学の「夕ぐれの時はよい時」というをご紹介します。

 

夕ぐれの時はよい時

 

夕ぐれの時はよい時、

かぎりなくやさしいひと時。

 

それは季節にかかはらぬ、

冬なれば煖炉のかたはら、

夏なれば大樹の木かげ、

それはいつも神秘に満ち、

それはいつも人の心を誘ふ、

それは人の心が、

ときに、しばしば、

静寂を愛することを

知つてゐるもののやうに、

小声にささやき、小声にかたる……

 

夕ぐれの時はよい時、

かぎりなくやさしいひと時。

 

若さににほふ人々のめには、

それは愛撫に満ちたひと時、

それはやさしさに溢れたひと時、

それは希望でいつぱいなひと時、

また青春の夢とほく

失ひはてた人々の為めには、

それはやさしい思ひ出のひと時、

それは過ぎ去つた夢の酩酊、

それは今日の心には痛いけれど、

しかも全く忘れかねた

その上の日のなつかしい移り香。

 

夕ぐれの時はよい時、

かぎりなくやさしいひと時。

 

夕ぐれのこの憂鬱は何所から来るのだらうか?

だれもそれを知らぬ!

(おお! だれが何を知つてゐるものか?)

それは夜とともに密度を増し、

人をより強き夢幻へとみちびく……

 

夕ぐれの時はよい時、

かぎりなくやさしいひと時。

 

夕ぐれ時、

自然は人に安息をすすめるやうだ。

風は落ち、

ものの響は絶え、

人は花の呼吸をきき得るやうな気がする、

今まで風にゆられてゐた草の葉も

たちまちに静まりかへり、

小鳥は翼の間にこうべをうづめる……

 

夕ぐれの時はよい時、

かぎりなくやさしいひと時。

 

翻訳のようなぎこちない言葉づかい、素朴な技法こそが、読者にはごちそう…

 

読者は、書き出しから、いきなり意表を突かれる。少し、間のびしたような「のどかさ」をにじませる2行が、この後いくたびか繰り返され、この詩の基調となる。

 

夕ぐれの時はよい時、

かぎりなくやさしいひと時。

 

ひねらないで、そのまま差し出されると、読者は面喰ってしまう。要するに、文学作品としては「まんま」過ぎるのだ。

 

もう少し、磨き上げたい、研ぎ澄ましたくなるが、この「ゆるさ」「素朴さ」こそが、この詩のテーマにふさわしい、と読者は気づく。

 

また、言葉づかいは、時にぎこちなく、なめらかさに欠けているが、それがかえって作者の真摯な姿勢を感じさせている。

 

現代詩人ならば、すぐに書き直してしまうであろう、荒削りな表現から、私たちは誠実さを受け取ることができるのだ。

 

「夕ぐれのこの憂鬱は何所から来るのだらうか?」から始まる連で、いわゆる転調が行われる。

 

ここで調子がガラッと変わり、光に影を添え、テーマを深堀してゆく。

 

しかし、この技法も決して高度と言えるものではない。ひねらないで、そのまま素直に、人生の問題を提示しているから、読者は好感を抱くのだ。

 

1918年から2021年へ、堀口大学伝えるテーマは?

 

堀口大学の詩「夕ぐれの時はよい時」は、雑誌『詩篇』の第3巻第6号(1918年、大正7年6月)に「夕ぐれの歌(夕ぐれ)」掲載された。

 

1918年という遠い過去(100年以上前)から、堀口大学は何を語りかけているのか。

 

2021年のクリスマスイヴの朝、私は堀口大学と語らうつもりで、この詩「夕ぐれの時はよい時」を味わってみたい。

 

夕ぐれ時、夕焼けの空を眺めながら、3分間でいい、世の雑念を忘れたい。忘れられれば、どれだけ心は安らぐことか……そんなことを、一読して思った。

 

堀口大学がこの詩を書いた時代とは、比較にならないほど、現代では時の流れるスピードが速い。

 

時がゆっくり流れていること、実はこのことを社会構築の基本にすえねばならない。

 

現代社会は、真逆に、時間短縮と高速化に血まなこになっている。

 

これでは、堀口大学がこの「夕ぐれの時はよい時」で思い出させてくれた、優しさ、神秘、静寂、愛撫、希望、夢幻、安息といった人生には欠かせない豊かさを、壊し、否定し、抹殺してゆくようなものだ。

 

堀口大学は、この詩「夕ぐれの時はよい時」で、スマホを手放し、両手を広げた空を見上げなさい、そうして、人生にとって本当に尊いものを想い出し、取り戻し、それを未来へとつなげてゆきなさい、そうすれば「憂鬱」さえも希望と変わり得る……と訴えていると思えてならない。