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中原中也の詩「汚れちまった悲しみに……」

今回は中原中也の「汚れっちまった悲しみに……」という詩を取り上げます。

 

汚れっちまった悲しみに……

 

汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる

 

汚れっちまった悲しみは
たとえば狐の革裘(かわごろも)
汚れっちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる

 

汚れっちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れっちまった悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢(ゆめ)む

 

汚れっちまった悲しみに
いたいたしくも怖気(おじけ)づき
汚れっちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

 

この「汚れちまった悲しみに……」は、中原中也の詩の中で最も有名な作品の一つである。

 

五七調のリズムが自嘲的でアンニュイを生み出し、俗っぽさも含めて、多くの人に「中原中也節」として親しまれてきたからだろう。

 

私としては、もはや、中也の嘆き節が醸し出す「倦怠感」を愛せない状態となっている。

 

このようなぶっきらぼうで、愚直で、希望のない抒情歌を歌った詩人に、青春期に没頭した時期が私にもあった。

 

しかし、令和の年代を生きる人たちには「汚れちまった悲しみに」は、受け入れがたいのではないか。

 

自嘲とか、デカダンスは、時代にパワーがあったこと、その時代に生きる人の内部にも、意識を超えたマグマのようなエネルギーがあったことを証明でもある。

 

力が衰えまくっている今、自嘲、そして自暴自棄に走ったら、死しかないだろう。

 

その意味で、中原中也の詩を、時代とそこに生きる人の中に、とてつもないパワーがあったことの証明として味わうことは、有意義だと私は思っている。

 

 

中原中也の詩「正午」

今回は中原中也の「正午」という詩を取り上げます。

 

正午

 

           丸ビル風景

 

ああ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ

ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ

月給取(げっきゅうとり)の午休(ひるやす)み、ぷらりぷらりと手を振って

あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ

大きなビルの真ッ黒い、小ッちゃな小ッちゃな出入口

空はひろびろ薄曇(うすぐも)り、薄曇り、埃(ほこ)りも少々立っている

ひょんな眼付(めつき)で見上げても、眼を落としても……

なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな

ああ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ

ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ

大きなビルの真ッ黒い、小ッちゃな小ッちゃな出入口

空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな

 

私は詩を鑑賞する時に「視点」と「時間」を大事なポイントとして押えるようにしています。

 

「視点」と「時間」は、詩をツボなのです。

 

今回ご紹介した中原中也の「正午」でも、「視点」は重要ですが、もう少し詳しく分析しますと「作者と対象との距離」がこの詩を読み解く上で欠かせない点となってきます。

 

一言でいいますと、対象と作者との距離が遠いのです。

 

この「遠さ」が、この「正午」という詩のテーマだとも言えます。

 

中原中也は詩人です。もちろん、サラリーマンではありません。世の中の大半がサラリーマンなのですが、その中に中也は入れない、いわば疎外者です。

 

別段、中也は仲間に入りたいと思っていませんが、あまりにも自分との距離が遠いので、当惑し、次のように中也節をひねってしまう。

 

空はひろびろ薄曇(うすぐも)り、薄曇り、埃(ほこ)りも少々立っている

ひょんな眼付(めつき)で見上げても、眼を落としても……

なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな

 

中也節で歌っても心が晴れるわけではなく、わびしさは募るばかりです。

 

この「正午」は中原中也の数多い詩の中で、異彩を放っています。

 

カメラがロングショットになっている。つまり作者と対象との距離が遠く、それが詩の効果としても見事に機能しているのです。

 

この「遠さ」と、同じ言葉を繰り返す、中也節とが溶け合い、独特の心的雰囲気を醸し出しています。

菱山修三の詩「夜明け」~詩集「断崖」より

今回は菱山修三の代表作である「夜明け」をご紹介する。

 

【動画】(朗読)菱山修三「夜明け」

 

夜明け

 

私は遅刻する。世の中の鐘がなつてしまつたあとで、私は到著(たうちゃく)する。私は既に負傷してゐる。

 

菱山 修三(ひしやま しゅうぞう)は、1909年8月28日に生まれ、1967年8月7日に死去した日本の詩人。

 

この「夜明け」という詩は、詩集「断崖」の冒頭に収められている。

 

「夜明け」について、解説の必要はあるまい。

 

私は中学生の頃、自分の遅刻癖に悩まされた。ほとんど病気と言いたくなるほど……どうしても、毎日のように遅刻してしまうのである。

 

遅刻は、自分の心を痛めつける行為だ。菱山修三は「世の中」という言葉を使ってくれたが、「この世界」と私は言いたいくらい、この世のすべてから取り残されたような疎外感を味わったものだった。

 

周囲と同じ行動をとること、レールの上を走り続けることは、何と安楽で幸福なことか。

 

また、それは同時に、実に空しく不幸なことである。

 

当然のことながら、菱山修三も、人生における「遅刻の常習犯」であったろう。

 

いや、詩人と呼ばれる者は、全員が「遅刻の常習犯」に違いない。

 

私は詩を書くのをやめてから「常習犯」ではなくなった。

 

しかし、また最近、「再犯者」になりつつあるようだ。ある意味、良い傾向だと思っている。

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