- 投稿 2020/09/25
- 日本語 - 間違えやすい日本語
文化庁は25日、令和元年度の「国語に関する世論調査」の結果を発表した。
調査は国語への理解や意識を深めるため、平成7年度から毎年実施しており、今回は16歳以上の男女1994人が回答した。 この記事の続きを読む
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調査は国語への理解や意識を深めるため、平成7年度から毎年実施しており、今回は16歳以上の男女1994人が回答した。 この記事の続きを読む
今回は黒田三郎の「紙風船」という詩をご紹介。
さっそく、引用してみます。
紙風船
落ちて来たら
今度は
もっと高く
もっともっと高く
何度でも
打ち上げよう
美しい
願いごとのように
私は基本、詩は素直に読むようにしている。あるがままに、そのままに、受け入れる、それが唯一の鑑賞法だと思っている。
では、この詩「紙風船」を素直に読んでみる、というか、素直に、未来への希望を歌った、青春の詩だと解釈してみようとすると、矛盾に突き当たるのだ。
要するに、素直に読めないのが「紙風船」という詩なのである。
将来への夢や希望を歌った詩であるとするならば、どうしてこんなに寂しい感じがするのだろう。
深い挫折感、癒えない傷の痛みが伝わってきて、青春の淡い憧れを無邪気に夢想できはしない。
どうやら、この「紙風船」に漂う暗い影は、戦争のようである。
戦争という言葉を一回も使っていないが、「紙風船」と同様に、戦争の影を抜きには語れない詩に、村野史郎の「鹿」がある。
村野四郎の「鹿」が絶望の詩なら、この黒田三郎の「紙風船」は希望の詩である。
ここで私が「絶望」と「希望」を対比させたのは、長く悲惨な戦争を意識したためだ。
不思議である。あの大東亜戦争を想うと、自己に誠実であろうとすると、絶望するか、希望するか、どちらかしかないのだ。
あえて申し上げるならば、絶望と希望の違いはあるが、「鹿」も「紙風船」も、反戦歌なのである。
しかし、ここで摩訶不思議なことに気づく。
「鹿」は妙に明るく、「紙風船」は妙に暗い……。
ツイッターで友資さんが、私のこのレビューについて、以下のようにつぶやいてくれた。
個人的に「鹿」に対し感じたのは、絶望というよりも、黄金の時間を生きてきた鹿の、命ここで尽きるとしても、もはや何も恐れるものはないかのような、神々しいたたずまいでした。
友資さんの指摘は鋭く、新たなる発見へと私を導いてくれた。
村野四郎は「鹿」で絶望を表出したはずなのに、明るく強い。逆に、黒田三郎は「紙風船」で希望を夢見たはずなのに、暗くはかない。
人は時には、絶望した方が強く明るくなれ、人は時に、希望を夢見ることで、弱々しく、虚しさ、寂しさを拭い去れない、そのことに、「鹿」と「紙風船」を再読して気づかされた。
そして、私自身が、青春期に考えていた(日記に記した)ことが思い返された。
絶望なくして、真の生命の充実はない。
私の運営するYouTube「風花未来の詩心チャンネル」の視聴者さんから、ご質問があり、この村野四郎の「鹿」という詩を読み返しました。
さっそく引用してみましょう。
鹿
鹿は 森のはずれの
夕日の中に じっと立っていた
彼は知っていた
小さい額が狙われているのを
けれども 彼に
どうすることが出来ただろう
彼は すんなり立って
村の方を見ていた
生きる時間が黄金のように光る
彼の棲家である
大きい森の夜を背景にして
村野 四郎(むらの しろう)は、1901年(明治34年)10月7日に生まれ、1975年(昭和50年)3月2日に死去した日本の詩人である。
村野四郎の詩は、青春期に少し読んだことがあり、詩集も持っていたが、今は持っていない。つまり、傾倒したことがない詩人なのである。
新たに詩集を買い求めようとも思ったが、それはやめることにした。ネットで代表作を探せば、それでいい気がしたから。
村野四郎の詩で、今も愛され続けているのは、いわゆる現代詩と呼ばれる、実験的・概念的・難解な作品ではなく、わかりやすい詩であることが注目すべきである。
読み継がれ、語り継がれる詩は、例外なくシンプルな作品であろう。
「鹿」が登場する文学作品として私がすぐに想起したのは、スティーヴン・キングの「スタンド・バイ・ミー」である。
線路を渡ろうとした鹿が立ち止まってこちらを向き、主人公の少年と鹿の目と目が合うとうシーン。
このシーンが実に素晴らしくて、何度も読み返した記憶がある。
この「スタンド・バイ・ミー」の鹿が登場する場面と、村野四郎の「鹿」とを無意識のうちに比較していた。
私としては、圧倒的に「スタンド・バイ・ミー」の方を支持する。なぜなら、命の根源と根源が交信して、生きていることの素晴らしさを全身で感じられるのが「スタンド・バイ・ミー」だからだ。そして、ここには、未来への限りない夢と希望がある。
一方、村野四郎の「鹿」は?
希望は、ここにはない。あるのは、やがて訪れる「死」に対し、なす術もなく立ち尽くすことしかできない「絶望」だけだ……というふうに私には感じられた。
その私の「感じ」によって、この「鹿」という詩作品を規定したり、断定したりする気はないが、私が強く「絶望」を覚えたのは確かである。
ただ、「スタンド・バイ・ミー」と比較したために、村野四郎の「鹿」の主題が鮮明に見えた、あくまで私にとってではあるが……。
「鹿」は、戦争という無慈悲な、日常生活とはかけはなれた「暗黒」なしには鑑賞できない気も私はしている。
あえて戦争という言葉を使わないとしたら、「鹿」に例えられた、人々の日々の暮らしは、残酷な運命という外的に、いつ破壊されるかもわからない。
人々はその外的に対して、あまりにも無防備である、鉄砲に狙われても、逃げ出すことさえできない「鹿」のように。
時を経て「鹿」を読み返すと、新たな気づきが得られた。
絶望は時にポジティブとなり、希望は時にネガティブとなる、そのことに思い当たったのである。
それについては、黒田三郎の詩「紙風船」のレビューで語ったので、以下のリンク先でご確認いただきたい。
村野四郎の詩は他にも以下の作品を当ブログでは取り上げています。