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てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った~安西冬衛の詩「春」より

安西冬衛(あんざいふゆえ)という詩人をご存じだろうか。安西冬衛という名前を知らない人も、以下の「」というは読んだことがある、という人は多いと思う。

 

【動画】(朗読)安西冬衛の詩「春」

 

 

てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った

 

一行詩である。俳句ではなく自由詩で、たったの一行によって詩なるものを表すことは、よほどの覚悟が必要だろう。

 

「てふてふ」は「蝶々」のことで「ちょうちょう」と、「韃靼海峡」は「だったんかいきょう」と読む。

 

「韃靼海峡」の幅は約7.3kmという。海を渡る蝶がいるとは、聞いたことがあるが、蝶のような弱々しい昆虫がはたして広大な海を超えられるだろうか、とその時想ったものだ。

 

あるテレビ番組で、蝶々は流木にとまったりして休みながら渡ってゆくのだと放送していて、なるほど、それは大したものだと感心したことを憶えている。

 

今回、韃靼海峡が幅7.3キロと知って、それならば渡れぬこともあるまいと改めて感じ入った。

 

「韃靼海峡」は間宮海峡のことだ。以下、間宮海峡の解説を、ウィキペディアから引用しておこう。

 

間宮海峡(まみやかいきょう)は、樺太(サハリン島) とユーラシア大陸(北満州・沿海地方、ハバロフスク地方)との間にある海峡。北はオホーツク海、南は日本海に通じ、長さはおおよそ660km。最狭部の幅は約7.3km、深さは最浅部で約8m。冬の間は凍結し、徒歩で横断することも可能である。

 

日本においてはこの海峡の名称を間宮海峡としているが、ロシア、アメリカ合衆国、イギリス、中国をはじめとして諸外国ではこの海峡の名称をタタール海峡(ロシア語:Татарский пролив、英語:Strait of Tartary or Tatar Strait、中国語:韃靼海峡)としている。日本でも、タタール海峡、ダッタン海峡、韃靼海峡と記された地図が存在する。

 

要するに、予備知識として、韃靼海峡の冬は極めて厳しいということ、そして厳寒の地にあって春という季節がいかに待ち遠しいものであるか、そのことをインプットしておくべきなのである。

 

また、安西冬衛は父の赴任先大連でこの詩を書いた。安西冬衛は大連で関節炎のため右足を切断せざるを得なかった。そのことも知っておいた方が良いかもしれない。

 

不自由な身体となった安西が、海峡を渡る一匹の蝶に思いをはせ、自らの願いを託した。

 

そう単純に考えるだけでいい。

 

ネット上にも、さまざまな解釈が掲出されている。そういう、あらゆる読解術から自由であったほうがいい。

 

一匹の蝶が海を渡る、それだけで、想像は無限に広がってゆく。

 

あまりにも無謀な賭け、あまりにも孤独で辛い旅に、理由もわからず挑戦したくなる時が(誰にも一生に一度あるのではないか。

 

日本の名作詩ベスト100はこちらに

 

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映画「疑惑の影」~ヒッチコック監督

YouTubeで見た淀川長治さんの解説に惹かれて、ヒッチコック映画の「疑惑の影」を見た。

 

「疑惑の影」(原題: Shadow of a Doubt)は、1943年のアメリカ映画。

 

初めは吹き替え版を見かけたのだが、吹き替えがあまりにも棒読みすぎて雰囲気に欠けたので、字幕版に切り替えた。

 

悪役のジョセフ・コットンは初めて見た。テレサ・ライトは好きな女優だ。

 

もしも、主演女優がテレサ・ライトでなかったら、途中で挫折したかもしれない。

 

名匠のヒッチコックといえども、初期作品には駄作めいたものもないではない。

 

もちろん「疑惑の影」は駄作ではない。しかし、もうひと工夫、ふた工夫ほしい映画であることは間違いない。

 

ヒッチコックには思想とか、人間愛とかは基本ありはしない。サスペンスの演出、謎の提示と謎解き、ラストを読ませない構成などが完璧でないと、見終わった後、何も残らないという危険視をはらんでいる。

 

映画作品としては、同時期に作られた「レベッカ」の方が上である。

映画「ヒア アフター」~クリント・イーストウッド監督

映画「ヒア アフター(原題: Hereafter)。Hereafterは「来世」という意味。

 

他のクリント・イーストウッド監督の映画と作風が異なるので、少々戸惑った。2010年のアメリカ映画。製作総指揮は、スティーヴン・スピルバーグなど4人が担当。

 

幻想的なシーンがしばしば出てくるが、スピルバーグ的な演出と言えるのかもしれない。

 

暗い画面と明るい画面のコントラストが激しく、内面を見つめ過ぎた人間が外界を見つめた時に感じる眩しさ、あるいは眩暈(めまい)の効果を狙っているのだろうか。

 

ストーリーの設定が3つに分かれて進展してゆく。そして最後にその3つが「つながる」という構成である。

 

主演の男女がともに典型的な美男美女ではない点が、良いと思った。主演男優は マット・デイモン、主演女優はセシル・ドゥ・フランスだ。

 

心に深い傷を負った少年を演じた子役が効いていた。

 

通常の映画だと、3つの物語がつながってから、展開があるのだが、つながったところで終わってしまった。

 

癒し、再生という名の扉は開いたのだから、その後は描く必要ない、ということなのだろう。

 

こういう断端な省略法は、よほど自分の手腕に自信がないと、また高い技量がないとできるものではない。

 

さすがは、名匠・クリント・イーストウッド監督である。

 

いつも思うのだが、エンディングの音楽は絶妙だ。ちなみに音楽は、クリント・イーストウッドが担当している。