Warning: Undefined variable $show_stats in /home/kazahana/kazahanamirai.com/public_html/wp-content/plugins/stats/stats.php on line 1384

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ~三好達治の詩「雪」より

今回は三好達治の「」というをご紹介します。

 

【動画】(朗読と鑑賞)三好達治「雪」

 

さっそく、引用してみましょう。

 

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

 

三好達治の「雪」に関する解説は読む必要ありません。

 

教科書に載ったことがあるため、三好達治の数多い詩の中でも、最も広く知られる作品となっています。

 

説明的の記述がほとんどないため、様々な解釈がされてきました。

 

作家の井伏鱒二と三好達治の「雪」という詩をめぐるやりとりは、確かに興味をそそります。

 

いつか三好君は(私が陸軍徴用でマレーに行くとき)この薬を一粒か二粒、水筒に入れると水の消毒になると云って、クレオソート丸の大瓶を餞別にくれた。その時の話だが、三好君の「雪」の詩の「太郎」は四歳ぐらいだと思っていいかと私が訊くと、「うん、それでもいいよ」と云った。「すると次郎は、二歳ぐらいか」と訊くと、「君はそんな余計なことを訊いて、次郎はあのとき寝小便していたかと訊きたいんだろう」と云った。それにしても「太郎」は四歳ぐらい、「次郎」は二歳ぐらいがいい。私は今でもそう思っている。夜の青い鳥も眠っているような感じがする。(『風貌・姿勢』ー井伏鱒二)

 

「雪」の作者である三好達治は、何を井伏鱒二に伝えたかったのかのか?

 

自分の好きなように読み、好きなように味わっていほしい」、このことに尽きるでしょう。

 

この「雪」という詩は、二行しかありません。それだけに、無限の憶測が可能となります。

 

その憶測を楽しめばいいだけのこと。

 

しかし、「自分の好きなように読み、好きなように味わっていほしい」と言われると、余計に悩んでしまう人もおられるかもしれません。

 

選は創作なり」と高浜虚子は言っています。

 

俳句の文化は、句会に集まった人たちが、句を評価しあうことで育て上げられてきた側面があるのです。

 

どの句を選び、どのように解釈するか、それは、厳しい自分への問いかけにほかなりません。つまり、自分自身の力量が隠しようもなくあらわれてしまう。

 

かといって、三好達治の詩「雪」を鑑賞する時に、身構える必要はありません。

 

自由自在に味わい、正解を求めないことが肝心です。

 

そもそも文学に答えなどありません。一つだけの正解が用意されている詩など、つまらないとしか言いようがない。

 

以上の意味から、「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ」という詩に関する解説文の類は読む必要なし。

 

ご自分で感じるがままに、想うがままに、想像の翼を存分に広げてみてください。

 

三好達治の詩「雪」に関する風花未来の感想文

 

以下、参考にしていただきたいのではなく、私としても、現段階で三好達治の詩「雪」を、このように読んだという記録を残しておきたくて、以下、私なりの感想文を書いてみることにする。

 

鑑賞のために、もう一度、引用を。

 

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

 

まずは、視覚的にバランスのとれた詩であること。二行の長さが全く同じで、「せ」と「む」の繰り返しで、音韻的な効果もあげている。

 

まあ、そういうことは、最優先事項ではない。

 

私は「雪」には、2つのテーマがある。

 

それは「命」と「時」

 

「命」について

 

「生きる」とは「無数の眠り」を繰り返すことでもる。

 

「生きる」というと、何か活発な行動をすることをイメージするが、その一方で「眠る」ことも、やはり「生きる」大事な要素なのである。

 

特に子供の「眠り」は純粋で深い。

 

昼間、夢中になって(無心で)生きているからこそ、昼間の活動と同じ純度でもって眠る、それが子供だと言えなくもない。

 

「生きる純度」においては、厳しい環境、例えば雪国に暮らすほうが、純度が高くなる。

 

その意味から、三好達治の詩「雪」は、子供と言う「生きること」即ち「眠ること」の天才をうたうことで、「命」そのものを表現しようとしたのだろうと私は考える。

 

「時」について

 

子供は何度となく「眠り」を繰り返す。計り知れないほどの量の雪が子供の上に、季節が巡ることが降り積もってゆく……そうして子供たちは育ってゆく。

 

この静かな無音の「時」の流れよりも美しいものが、この世にあるだろうか。

 

しんしんと降る雪が、世界を沈黙させつつ浄化してゆくように、音もなく流れる「時」を感じること以外に、この世を美しいと感じる術はあるのか、美しい世界とつながれる方法はあるのだろうか、と三好達治は、無音の言葉を胸の奥で囁いている気がするのである。

 

三好達治のその他の名作詩

 

三好達治の詩まとめ

中原中也の詩「夏の夜の博覧会は、かなしからずや」

今回は中原中也の「夏の夜の博覧会は、かなしからずや」というをご紹介します。

 

さっそく、引用してみましょう。

 

夏の夜の博覧会は、かなしからずや

 

 

夏の夜の博覧会は、哀しからずや
雨ちよと降りて、やがてもあがりぬ
夏の夜の、博覧会は、哀しからずや

 

女房買物をなす間、
象の前に僕と坊やとはゐぬ、
二人蹲(しやが)んでゐぬ、かなしからずや、やがて女房きぬ

 

三人博覧会を出でぬかなしからずや
不忍(しのばず)ノ池の前に立ちぬ、坊や眺めてありぬ

 

そは坊やの見し、水の中にて最も大なるものなりき、かなしからずや、
髪毛風に吹かれつ
見てありぬ、見てありぬ、かなしからずや

それより手を引きて歩きて
広小路に出でぬ、かなしからずや

 

広小路にて玩具を買ひぬ、兎の玩具かなしからずや

 

 

その日博覧会に入りしばかりの刻(とき)は
なほ明るく、昼の明(あかり)ありぬ、

 

われら三人(みたり)飛行機にのりぬ
例の廻旋する飛行機にのりぬ

 

飛行機の夕空にめぐれば、
四囲の燈光また夕空にめぐりぬ

 

夕空は、紺青(こんじやう)の色なりき
燈光は、貝釦(かひボタン)の色なりき

 

その時よ、坊や見てありぬ
その時よ、めぐる釦を
その時よ、坊やみてありぬ
その時よ、紺青の空!

 

中原中也と彼の長男である文也との関係は、知っておいたほうがいいでしょう。

 

文也はわずか二歳で死んでしまいました。死因は小児結核。

 

中也の悲しみような尋常ではなく、精神を病むほどでした。

 

「夏の夜の博覧会は、哀しからずや」という詩は、技法的に単純すぎ、作品としての完成度は高くはありません。

 

しかし、この詩を読むと、中也の幼い我が子を想う気持ちのあまりの激しさに、否応もなく、魂までゆすぶられてしまうのです。

中原中也の詩「六月の雨」が、極めて貴重である理由。

今回ご紹介するのは、中原中也の「六月の雨」という詩です。

 

【動画】(朗読と鑑賞)中原中也「六月の雨」

 

さっそく、引用してみましょう。

 

六月の雨

 

またひとしきり 午前の雨が
菖蒲(しょうぶ)のいろの みどりいろ
眼(まなこ)うるめる 面長(おもなが)き女(ひと)
たちあらわれて 消えてゆく

 

たちあらわれて 消えゆけば

うれいに沈み しとしとと

畠(はたけ)の上に 落ちている
はてしもしれず 落ちている

 

お太鼓(たいこ)叩(たた)いて 笛吹いて

あどけない子が 日曜日
畳の上で 遊びます

 

お太鼓叩いて 笛吹いて

遊んでいれば 雨が降る
櫺子(れんじ)の外に 雨が降る

 

中原中也の「特別ではない、普通の詩」

 

中原中也の詩は私にとって特別でした。青春期に最も読み込んだのが「中原中也詩集」でした。

 

中原中也は私にとって特別な詩人です。他のどんな詩人よりも「命がけ」で詩作し、詩と心中した詩人という思いが私の心象に深く刻まれています。

 

そのためか、いったん読まなくなると、全く読まなくなったのも、中原中也の詩です。

 

今回、中原中也の詩を、詩になじみのない人に紹介したいと思い、どの作品を取り上げようか迷いました。

 

で、思いついたのが中原中也の「特別ではない、普通の詩」を読んでもらおうということ。

 

久方ぶりに中原中也の詩集を開いてみると、中原中也の詩情は、時に激しく凡人を寄せ付けないほど苛烈ですが、実はどなたにも親しみやすい「尋常な人間の尋常な心持もち」が根底にあることを確認できました。

 

そこで、選んだのが「六月の雨」です。

 

中原中也の人生の中で最も大事な人物が、二人登場する

 

小林秀雄が中原中也ついて、「歌う」より「告白した」詩人である、また、生涯「叙事性の欠如」に苦しんだと指摘しました。

 

まさに、その通りでしょう。

 

どんなに優れた詩人でも、大した人生経験もなく、詩文学以外の仕事や事業に関わったことがない人間が、自分の内面だけを見つめて詩を作り続けられるものではありません。

 

中原は愚直なまでに、少ない人生経験の中で、自分の魂の深奥を見つめつつ、命がけで詩作にふけりました。

 

中原の30年の生涯は、まるで「詩との爆死」です。

 

そうした中原にも、人を癒す詩はあります。それが、「六月の雨」。

 

この詩には、二人の人物が登場します。※以下は推測ですが、間違いないとでしょう。

 

かつて愛した長谷川康子の想い出。そして、自分の子供である、文也です。

 

長谷川康子は小林秀雄と同棲することになり、文也は幼くして死んでしまいます。

 

そうした予備知識はなくとも、かつての恋人を想い、我が子が愛しい、という心情は誰でも理解できます。

 

恋人と子供という、ごくありふれているけれども確かな存在(対象)を、降っている雨が醸し出す抒情に包んで、中原は穏やかな表情で、一篇の詩を私たちに届けてくれました。

 

それが、中原中也の数多い詩の中でも珍しい、静かで均衡のとれた、心安らぐ抒情詩、それが「六月の雨」にほかなりません。

 

この作品では、中原中也の魂の傷口は閉じていて、痛みもないので、私たちは安心して豊かな詩情に浸ることができるのです。