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高村光太郎の詩「荒涼たる帰宅」

今回は高村光太郎の「荒涼たる帰宅」というをご紹介しましょう。

 

【動画】(朗読)高村光太郎「荒涼たる帰宅」

 

荒涼たる帰宅

 

あんなに帰りたがつてゐる自分の内へ

智恵子は死んでかへつて来た。

十月の深夜のがらんどうなアトリエの

小さな隅の埃(ほこり)を払つてきれいに浄め、

私は智恵子をそつと置く。

この一個の動かない人体の前に

私はいつまでも立ちつくす。

人は屏風(びようぶ)をさかさにする。

人は燭(しよく)をともし香をたく。

人は智恵子に化粧する。

さうして事がひとりでに運ぶ。

夜が明けたり日がくれたりして

そこら中がにぎやかになり、

家の中は花にうづまり、

何処(どこ)かの葬式のやうになり、

いつのまにか智恵子が居なくなる。

私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。

外は名月といふ月夜らしい。

 

放心状態。

 

高村光太郎は、智恵子が死んでしまったことをまだ信じられないというか、完全には受け入れられなくて、自分が自分ではない、そんな感じでいるのが、よく伝わってきます。

 

私個人の話になってしまって恐縮ですが、愛する人を突然失った時、魂が空っぽになったような今までに感じたことがない状態に自分が陥ってしまったことがあり、その時のことを想い出しました。

 

魂がガランドウになる、そういうことは実際に起こりうるのです。

 

ましてや、高村光太郎の場合、智恵子なしには彼の人生そのものが考えられないというくらい、智恵子の存在は大きかったわけですが、その死の意味はあまりにも大きすぎるわけで……。

 

ただ、その一種の放心という特殊な精神状態、そのものが「荒涼たる帰宅」の文学的な成功をもたらしていることは、特筆に値します。

 

光太郎の目に映るものはすべて空しく、光太郎の心の眼は、生きている時の智恵子と交感し続けているかのようです。

 

光太郎が見た光景を淡々と語ることが、いかに智恵子の存在が大きかったかを語ることになり、それがそのまま詩となっているという特殊なケースだと言えるでしょう。

高村光太郎の詩「千鳥と遊ぶ智恵子」

今回ご紹介するのは、高村光太郎の「千鳥と遊ぶ智恵子」というです。「千鳥と遊ぶ智恵子」は、詩集『智恵子抄』に収められています。

 

さっそく、引用してみましょう。

 

千鳥と遊ぶ智恵子

 

人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の

砂にすわつて智恵子は遊ぶ。

無数の友だちが智恵子の名をよぶ。

ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――

砂に小さな趾(あし)あとをつけて

千鳥が智恵子に寄つて来る。

口の中でいつでも何か言つてる智恵子が

両手をあげてよびかへす。

ちい、ちい、ちい――

両手の貝を千鳥がねだる。

智恵子はそれをぱらぱら投げる。

群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。

ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――

人間商売さらりとやめて、

もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の

うしろ姿がぽつんと見える。

二丁も離れた防風林の夕日の中で

松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す。

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虫が鳴いている~八木重吉の詩「虫」より

今回は八木重吉の「」というをご紹介。

 

【動画】(朗読と鑑賞)八木重吉「虫」

 

さっそく、引用してみましょう。

 

 

虫が鳴いてる
いま ないておかなければ
もう駄目だというふうに鳴いてる
しぜんと
涙がさそわれる

 

虫の鳴き声を聴いていて「いま ないておかなければ もう駄目だというふうに鳴いてる」と感じる、ということは、八木自身、自分の命はもうそんなに長くないと思っているのかもしれない、と思うのは自然でしょう。

 

この「虫」という詩を書いてから、八木重吉がどれくらいの年月を生きたのか、調べたことがないので、わかりません。

 

戦前までの詩人の多くは、30歳くらいまでに死んでしまいました。

 

八木重吉もまた29歳という若さで亡くなった、いわゆる夭折詩人の一人です。

 

そういう「生きることが詩」「詩を書くことが生きること」である詩人は、日常から、死を意識して生きているものです。

 

その意味から、八木重吉が虫の鳴き声を聞いて「いま ないておかなければ もう駄目だというふうに鳴いてる」と感じても、何の不思議もありません。

 

自身の強い実感を、短くわかりやすい詩にまとめあげたこと、というより、もとより表現技術や詩の修辞学を無視して詩作し続けた八木が、ごく自然に表出したことを素直に受け入れるべきでしょう。

 

表現が単純すぎるとか、わかりやすくて深みがない、と批判するのは的外れだとしか言いようがありません。

 

切実な思いを、限界まで平易にあらわしたからこそ、素晴らしいのです。

 

以上の理由から、私はこの「虫」を、八木重吉の詩の到達点として評価しています。

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