今回は高村光太郎の「荒涼たる帰宅」という詩をご紹介しましょう。
荒涼たる帰宅
あんなに帰りたがつてゐる自分の内へ
智恵子は死んでかへつて来た。
十月の深夜のがらんどうなアトリエの
小さな隅の埃(ほこり)を払つてきれいに浄め、
私は智恵子をそつと置く。
この一個の動かない人体の前に
私はいつまでも立ちつくす。
人は屏風(びようぶ)をさかさにする。
人は燭(しよく)をともし香をたく。
人は智恵子に化粧する。
さうして事がひとりでに運ぶ。
夜が明けたり日がくれたりして
そこら中がにぎやかになり、
家の中は花にうづまり、
何処(どこ)かの葬式のやうになり、
いつのまにか智恵子が居なくなる。
私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
外は名月といふ月夜らしい。
放心状態。
高村光太郎は、智恵子が死んでしまったことをまだ信じられないというか、完全には受け入れられなくて、自分が自分ではない、そんな感じでいるのが、よく伝わってきます。
私個人の話になってしまって恐縮ですが、愛する人を突然失った時、魂が空っぽになったような今までに感じたことがない状態に自分が陥ってしまったことがあり、その時のことを想い出しました。
魂がガランドウになる、そういうことは実際に起こりうるのです。
ましてや、高村光太郎の場合、智恵子なしには彼の人生そのものが考えられないというくらい、智恵子の存在は大きかったわけですが、その死の意味はあまりにも大きすぎるわけで……。
ただ、その一種の放心という特殊な精神状態、そのものが「荒涼たる帰宅」の文学的な成功をもたらしていることは、特筆に値します。
光太郎の目に映るものはすべて空しく、光太郎の心の眼は、生きている時の智恵子と交感し続けているかのようです。
光太郎が見た光景を淡々と語ることが、いかに智恵子の存在が大きかったかを語ることになり、それがそのまま詩となっているという特殊なケースだと言えるでしょう。