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「美しい言葉」「美しい日本語」について語ろうとする時、いつも思うのは、言葉は時代とともに変わる、そして、人とともに変わることです。
言葉は人間が生み出し、人間が使うもの。人と切り離して、言葉は語れないのです。
「死語」とは、人の生活や価値観が変わりすぎて、使われなくなった言葉のこと。
死語となる危機に瀕している日本語に「涼しげなまなざし」があります。
「まなざし」を漢字で書けば「眼差し」となりますが、「眼差し」と「まなざし」と読めない人もいるかもしれません。
検索エンジンで「涼しげなまなざし」で調べると、「もしかして: 涼しげな眼差し」と出ました。ということは、漢字まじりの「涼しげな眼差し」の方が一般的なのでしょうかね。
でも、ここでは「涼しげなまなざし」と表記することにします。
それはともかく、「涼しげ」と「まなざし」は使われていますが、「涼しげなまなざし」という言葉は、ほとんど聞かれなくなっていることが気がかりです。
「涼しげなまなざし」と表現するから、美しい表現として際立つと感じるのは私だけでしょうか。
「目は心の窓」という言葉がありますが、日本人の心が完全に汚染され、澄んだ心持ちが失われてしまえば「美しいまなざし」「清らかな瞳」「凛としたまなざし」「濁りのないまなこ」などの日本語は「死語」となってしまうかもしれません。
「目は心の窓」については、こちらへ⇒「目は心の窓」という言葉の怖さに気づいていますか?
遠い昔ではありますが、私は「涼しげなまなざし」をした人に逢ったことがあります。はるか遠い記憶であるにもかかわらず、その美しすぎる曇りなき瞳の色は、なぜか鮮明に思い出すことができます。
涼しげなまなざしをした人がいるだけでも尊いのです。瞳のきれいな人とすれ違っただけで、心が清められ、どれほど気持ちが沈みこんでいても、パッと視界が明るくなる……そんな経験をまたしてみたいと思うのですが、かなうでしょうか。
澄んだ目をした人が少なくなったというよりも、目の濁りが気になる人が増えている気がします。瞳が暗すぎるので、濁っているというより、目に光がないといった方が適切かもしれません。
美という言葉は乱用されていますが、美こそは心の反映です。
時代がさらに、ささくれだってゆけば「涼しげなまなざし」という美しい日本語の風景は、過去の記憶の中でしか生きてゆけなくなるでしょう。
私は武士の子孫なのですが、同じ武士の子孫が直感で分かります。
眼差しがすずしげなのです。
プライド、でしょうか、切腹する潔さがDNAにあり、眼力にでると理解しています。
高倉健のそれですね。