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映画「天使のくれた時間」を再び鑑賞した感想。

以前、このブログで映画「天使のくれた時間」について感想を書きました。

 

⇒以前に書いた「天使のくれた時間」の感想文

 

それなのに、今回見直してみて、ストーリーさえもほとんど忘れていたのには本当にビックリしたのです。

 

良い映画は、絶対にあらすじを失念することはどないはずなのに…。

 

それはともかく、今回改めて鑑賞しなおしてみて、体の隅々にまで感動が行き渡ってゆく、沁み広がってゆくという、初めての経験をすることができました。

 

本当に素晴らしい。つきなみだけど、この映画が逢えて本当に良かった。 この記事の続きを読む

「八月のクリスマス」は、ベストワンの映画かもしれない。

映像の詩人・ホ・ジノ監督の代表作は何といっても「八月のクリスマス」。

 

私のこのブログでは、すでに「八月のクリスマス」についての感想はアップしています。その記事の日付を見たら、2016年9月19日となっています。

 

⇒前に書いた「八月のクリスマス」の感想はこちら

 

私が最初に書いた「八月のクリスマス」の感想文は、実はもっと前なのです。調べたら、2003年2月22日でした。

 

幸い、テキストファイルで保存してあったので、まずは、その古い感想文を引用してきますね。

 

八月のクリスマス

 

1998年作。韓国映画。監督:ホ・ジノ。撮影:ユ・ソンギル。出演:ハン・ソッキュ、シム・ウナ他。

手元のこの映画の詳しい資料がないので、間違ったことを書くのではと少し不安だ。

時代設定がわからない。エアコンの無い扇風機だけの夏が描かれていることくらいしか、時代を特定できない。韓国の車や原付スクーターからは年代はわからなかった。

病みすぎていない、まだ若者たちの心に素朴なものが息づいていた頃の話としておこう。

街や室内の描き方においても極力、煩雑なものは避け、映像世界の純度を上げようという意図がみられる。

 

監督の美意識がさりげなく発揮されていて心地よかった。

久しぶりに映画を見るせいか、正直に言うと最初は戸惑った。若い男女の感情の動き、心象風景に即座には同化できなかったのだ。少し古いというのか、素朴すぎて当惑した。こちらは毎日ミステリーを読んでいて、身も心も深く病んでいるのである(苦笑)。

だが中盤を過ぎると、この映画が優れていることがはっきりと伝わってきた。

 

説明しすぎない演出がいい。語りすぎないこと、省略すること、視聴者に想像の余地を与えるという映画の基本が静かに呼吸している。

大切なイメージを重ねること、小学校とか主人公の写真館の外観とかは何度も繰り返して見せる。次第に見るものの心に染み入ってくる、作者の伝えたいテーマが。

男女の職業の設定も良かった。写真館の店主と駐車違反取締員。

現金なもので、これはいい映画だぞと一旦信じ込むと、遊園地のジェットコースターやソフトクリームを食べるという余りにもありふれたシーンも、なぜか臭いとは感じられない。

 

おならをする幽霊のエピソードも良かった。

 

ふとんの中で慟哭する息子を見つめる父親のシーンは秀逸。

 

純粋に静かに、高い美意識で画像をコントロールしてゆけば、まだ充分に観客の涙をしぼることができることを、制作当時36歳の映画監督は我々に提示してくれているようだ。

 

そして、どんな時代にあっても、いい映画は人の心を開かせ、永遠不滅な真実に目覚めさせてくれることを自然体で伝えてくれていると思えてならない。

人の死は語られるが、殺人は起きない。静謐な安らかとも言える死が描かれているだけだ。ていたらくなミステリーとは雲泥の差である。

続けて二度見たが、ストーリー展開も巧いし、音楽の使い方も繊細で気が効いている。

 

見ればみるほどいい映画だ。久方ぶりにハートウォーミングな余韻に浸ることができた。

 

韓国映画、侮りがたし、である。

 

 

当時の私は、5年生存率20%の病気にかかり、すべてを投げ捨てて、名古屋から東京に引っ越し、小説を書いていた。

 

5年間ほど必死で書き続けたが、芽が出なかった。

 

小説を書くのは少し休もうと思っていたら、知らぬ間に私は職業ブロガーになっていた。

 

ブログだけで生計を立てていたのである。

 

その当時、運営していたブログに「八月のクリスマス」の感想を掲載したのだ。

 

もう、15年以上も前のことである。

 

さて、今年は2020年。今年の八月は、異常な暑さだ。

 

コロナ感染が終息しておらず、映画「八月のクリスマス」にある、静けさはない。

 

今回、またこの名画を見直してみて、この「八月のクリスマス」は、私にとってベストワンの映画かもしれないと思った。

 

ホ・ジノ監督が小津安二郎監督をリスペクトしていることは知られているが、小津安二郎の最高傑作である「東京物語」よりも、私は「八月のクリスマス」の方を、より愛していることに気づいた。

 

写真館の店主(主人公の青年)と駐車違反取締員(ヒロインの娘)

 

ヒロインが主人公の青年に向かって言うセリフがいい。

 

おじさん、なんで私の顔を見るといつも笑うの?

 

こういうセリフは、なかなか書けるものではない。

 

「美しさの中には必ず哀しみがある」とは、チャップリンの名言だが、人生は哀しく、そして美しいものであり、人は愛しいものである、ということを、しみじみと感じている詩心を持っていなければ「なんで私の顔も見るといつも笑うの?」などとは書けますまい。

 

今回「八月のクリスマス」を見て気づいたのは、映画をていねいに見ることを忘れいたこと。

 

ホ・ジノ監督は実にていねいに映画を作っている。一枚の木の葉にも物を言わせているのだ。

 

音楽の使い方を、繊細な心づかいが感じられた。

 

まるで、「人生は短い。毎日をもっとていねに生きましょう」と伝えてくれているようである。

 

 

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大関松三郎の詩「虫けら」全文と感想

大関松三郎とその詩「夕日」については、以前、私のこのブログでご紹介したことがあります。

 

大関松三郎のプロフィールなどについては、その記事をご覧ください。

 

大関松三郎の詩「夕日」

 

で、今回ご紹介するのは、大関松三郎の「虫けら」という詩です。

 

【動画】大関松三郎の詩「虫けら」について

 

さっそく引用してみましょう。

 

虫けら

 

一くわ
どっしんとおろして ひっくりかえした土の中から
もぞもぞと いろんな虫けらがでてくる
土の中にかくれていて
あんきにくらしていた虫けらが
おれの一くわで たちまち大さわぎだ
おまえは くそ虫といわれ
おまえは みみずといわれ
おまえは へっこき虫といわれ
おまえは げじげじといわれ
おまえは ありごといわれ
おまえらは 虫けらといわれ
おれは 人間といわれ
おれは 百姓といわれ
おれは くわをもって 土をたがやさねばならん
おれは おまえたちのうちをこわさねばならん
おれは おまえたちの 大将でもないし 敵でもないが
おれは おまえたちを けちらかしたり ころしたりする
おれは こまった
おれは くわをたてて考える

 

だが虫けらよ
やっぱりおれは土をたがやさんばならんでや
おまえらを けちらかしていかんばならんでや
なあ
虫けらや 虫けらや

 

八方破れの語り口なのに、すとんと腑に落ちる、完成された詩文学

 

詩の世界に限らず、「これはマネできない」というしかない、完全オリジナルな表現というものがあるでしょう。

 

この「虫けら」も、大関松三郎にしか書けない詩である、などという陳腐なことしか言い出せない自分を今、持て余しているのです。

 

このもの凄いパワーは、どこから来るんだろうか?

 

詩の重大なテーマの一つに「気づき」があります。

 

大関松三郎は「虫けら」という詩で、私たち一般人は、思わず、のけぞってしまう、度肝を抜かれてしまう、超ど級の「気づき」を与えられてしまう。

 

大関松三郎の「気づき」を与える手法は、洗練などとは無縁な、巨大な土の塊を心臓に向かって、ぶん投げてくる……怖ろしく無造作だ。

 

天真爛漫、天衣無縫、型というものを持たない、粗削りな手つきだからこそ、私たちも無防備に、警戒心を抱く暇もなく、大関松三郎の真っ正直な心情の吐露を、そのままに受け入れざるを得ない。

 

しかし、実は、詩の修辞学という観点から評価しますと、大関松三郎の「虫けら」は、完成度がたいへん高いのです。

 

「おまえは」と「おれは」を連続して、畳みかけ、次の二行の後に一行を空ける。

 

おれは こまった
おれは くわをたてて考える

 

この一行空けが実に利いていて、次の連を際立させているのです。

 

だが虫けらよ
やっぱりおれは土をたがやさんばならんでや
おまえらを けちらかしていかんばならんでや
なあ
虫けらや 虫けらや

 

いかがでしょうか?

 

テーマは「命とはこういうものだ」に尽きる。

 

詩のテーマですが、「命とはこういうものだ」としか言いようがありません。

 

昨今「命の尊厳」とか「命の選別」とか、後付けの概念語がしばしば使われ、逆の命を正常に感じることが難しくなっています。

 

「人権擁護」「命の尊厳」などという言葉を発すれば、「命」が重んじられるわけではありません。

 

そんなことより、日々を自分らしく、人らしく生きることの方が、はるかに大事です。

 

命とは、時に残酷であり、非情なものである。命とは決して常に洗練された崇高なものではなく、命とはある意味「どさくさまぎれ」のものであり、時には無様で不格好なものである、限界や矛盾だらけだけど、愛おしいもの、それが命というものではないか。

 

お題目みたいな概念語、イデオロギー用語を羅列することは、人を本来の命の輝きから遠ざける危険性が高いので、使うべきではない、というのが基本姿勢です。

 

一方、この大関松三郎の「虫けら」は、まさに「命の本質」を生き生きと体感させてくれます。

 

大関松三郎は「命」について、全身全霊、愛情を込めて語っている。だからこそ、過酷な命の宿命さえも、あるがままにそのままに受け入れられるのです。

 

大関松三郎の「虫けら」は、後世に伝えるべき傑作

 

こうして見てくると、大関松三郎の「虫けら」は、後世に語り継ぐべき、傑作中の傑作であることが判明します。

 

したがって、私は「語り継ぎたい日本の名作詩100選」の中に、この大関松三郎の「虫けら」を加えることにしました。

 

最後に、付言しておきます。

 

大関松三郎は「虫けら」を小学六年生の時に書いたそうです。

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