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サトウハチローの詩「うれしいひなまつり」

サトウハチローの詩は、このブログ「美しい言葉」では何回も取り上げています。

 

それくらい、良い詩が多いのです。

 

今回ご紹介するのは「うれしいひなまつり」です。

 

さっそく引用してみましょう。引用元は「サトウハチロー詩集 (ハルキ文庫)」

 

歌詞の全文はこちらに

 

歌詞に誤りがあるとの指摘は、ナンセンスである。

 

「お内裏様(だいりさま)と おひな様」という表現は間違いであるという指摘があります。そもそも「お内裏様」という言葉で男女一対を表すからです。

 

「内裏」のもともとの意味は「天皇皇后両陛下のお住まいになる御所」のことで、男性のみを指す言葉として使うのは間違いだとのこと。

 

また「少し白酒召されたか、赤いお顔の右大臣」も厳密には間違いだとか。ひな人形で顔が色付けされているのは「左大臣」だというのですね。

 

まあ、私としては、そういうことは全く興味がありません。

 

意味の間違いなど、度外視にして、読んで歌って、自分なりに味わった方が良いでしょう。自然に味わえば、詩として極めて優れていることは明白なのですから。

 

サトウハチロー自身は、間違いに気づいてからは、この「うれしいひなまつり」を毛嫌いしたというエピソードもあります。

 

そういうことも、大した意味はないでしょう。

 

名作と呼ばれる文学作品の中にも、誤字が見つかる例は珍しくありませんから。

 

そんなことより、その作品が私たちに感動を与えてくれるかどうか、それが最も大事なのです。

 

詩のテーマは「うれしさ」ではなく「かなしみ」

 

「うれしいひなまつり」を、文字通り100%「うれしい」歌だとして味わう人は少ないと私は思うのですが、いかがでしょうか。

 

どことなく「かなしい」ものが、胸に沁みてくる、その「かなしみ」によってこの詩は傑作となっている気がするのです。

 

そもそも、ひな祭りの日に、雛人形を飾っている家が、昔も今も、どれくらいあるのか。

 

私は五人兄弟の末っ子で、姉が二人います。しかし、幼いころ、家で雛人形を見た記憶がありません。

 

というか、近所の家に雛人形を見に行ってきたという姉の話の方を憶えているのです。

 

貧しくて高価な雛人形を買えなかったのか、そういうことに両親が興味がなかったのか、ともかく、雛人形は私の家で飾ったことはありませんでした。

 

私が少女だったら、どんな気持ちで雛祭りの日をむかえたでしょうか。

 

間違いなく、自分で家に飾ってほしかったはずです。それをわざわざ近所の家まで見に行くのは、かなしいに決まっているのです。

 

たとえ、雛人形が飾られていたとしても、豪華なものから、貧弱なものまで、グレードに差があり、雛人形の豪華さがその家の貧富の度合いを示している、そういうこともあったと思われます。

 

自分の家の雛人形は貧相だから、近所の豪華なものを見に行くという「かなしみ」は、少女にとって残酷なほど痛切なものがあったでしょう。

 

おそらくは、日本全国で同じ思いをした少女たちは多いのではないでしょうか。

 

旋律もちょっと寂しい感じがして、この「うれしいひなまつり」は、密かな哀しみが沁みてくる歌だと言えそうです。

 

サトウハチローのその他の詩はこちら

映画「ミリオンダラー・ベイビー」の感想

ミリオンダラー・ベイビー」という映画をご覧なったことがあるだろうか。

 

2004年のアメリカ映画である。監督はクリント・イーストウッド

 

 

こういう映画は、語り出したらキリがないほど言葉が次々から出てきてしまうはずだ。

 

なぜなら、傑作中の傑作だから、多彩な魅力が詰まっているからだ。

 

しかし、見終わった今、多くを語りたくはない。

 

エンディングの音楽

 

あえて言葉を発するとしたら、エンディングの音楽にすべてだ、としか言いようがない。

 

この静けさ……空虚だが、そこには不思議な安らぎがある。

 

この音楽だけでいいのではないか。映画の本編も必要ない、そう言ってしまいたくなるほど、深い哀しみと嘆きの渦を、優しい眼差しと微笑みで洗い流してくれるような聖母の愛をほうふつとさせるピアノの調べを、監督のクリント・イーストウッドは我々に贈ってくれた。

 

クリント・イーストウッドの演技

 

クリントイーストウッドが出演した映画はいろいろ見てきたが、この「ミリオンダラー・ベイビー」がベストワンではないだろうか。

 

いや、ベストとか順位をつけられない、至り尽くした境地に、クリントイーストウッドの演技は達していた。

 

その演技力をどのように評したらいいのだろうか。あえて言うなら、それは「抑制」だろう。

 

抑えておさえた演技が、演技を超えて、人間の正体、本質といったものを、映画を見る者にたちに伝えている。

 

そこには、何の説明もない。

 

テーマは運命愛か

 

人生の問題を突き詰めると、どうしても「運命」という言葉にぶち当たってしまう。

 

人生には正義も悪もない。罪も罰も、大した意味はなく、ただ、あるがままにそのままに、自分の運命を受けいられらるか、それだけに人生の命題は極まる、と最近の私は考えるようになった。

 

最近見た優れた映画のテーマは、すべて「運命」あるいは「運命愛」だと感じる。

 

八月のクリスマス」「天使のくれた時間」「ゴースト ニューヨークの幻」「レナードの朝」、そして「ミリオンダラー・ベイビー」。

 

傑作と呼ばれるにふさわしい作品のテーマが、イデオロギー的なお題目であったためしは一つもない。

 

概念語で割り切れてしまう作品など、鑑賞に値しない。

 

「運命を受け入れられるか」「運命を愛せるか」、それだけが問題なのだ、きっと。

会田綱雄の詩「伝説」

今回ご紹介するのは、会田綱雄(あいだつなお)の「伝説」という詩です。

 

【動画】(朗読と鑑賞)会田綱雄「伝説」

 

さっそく引用してみましょう。引用元は、茨木のり子詩のこころを読む」より

 

伝説

 

湖から

蟹が這いあがつてくると

わたくしたちはそれを縄にくくりつけ

山をこえて

市場の

石ころだらけの道に立つ

 

蟹を食うひともあるのだ

 

縄につるされ

毛の生えた十本の脚で

空を搔きむしりながら

蟹は銭になり

わたくしたちはひとにぎりの米と塩を買い

山をこえて

湖のほとりにかえる

 

ここは

草も枯れ

風はつめたく

わたくしたちの小屋は灯をともさぬ

 

くらやみのなかでわたくしたちは

わたくしたちのちちははの思い出を

くりかえし

くりかえし

わたくしたちのこどもにつたえる

わたくしたちのちちははも

わたくしたちのように

この湖の蟹をとらえ

あの山をこえ

ひとにぎりの米と塩をもちかえり

わたくしたちのために

熱いお粥をたいてくれたのだつた

 

わたくしたちはやがてまた

わたくしたちのちちははのように

痩せほそつたちいさなからだを

かるく

かるく

湖にすてにゆくだろう

そしてわたくしたちのぬけがらを

蟹はあとかたもなく食いつくすだろう

むかし

わたくしたちのちちははのぬけがらを

あとかたもなく食いつくしたように

 

それはわたくしたちのねがいである

 

こどもが寝いると

わたくしたちは小屋をぬけだし

湖に舟をうかべる

湖の上はうすらあかく

わたくしたちはふるえながら

やさしく

くるしく

むつびあう

 

会田綱雄は、1914年(大正3年)3月17日に生まれ、1990年(平成2年)2月22日に没した日本の詩人。

1947年、同人雑誌である『歴程』の同人となる。

 

1957年、詩集『鹹湖』を発表し、第一回高村光太郎賞を受賞。

 

会田綱雄について、詩人の知念栄喜が語った以下の評価が言い得て妙である。

 

残酷な生命の条理を自然の中に溶解し、原罪意識を夢幻的な物語として構成する特異な個性の詩人

 

今回ご紹介した「伝説」も、まさに知念のいう「特異な個性」が表出されている。

 

1964年、詩集『狂言』を思潮社から、1970年、67部限定の詩集『汝』を母岩社から出版。 1977年、詩集『遺言』で第29回読売文学賞を受賞。

 

会田綱雄の詩歴は地味だが、高村光太郎賞と読売文学賞を受賞しており、賞に恵まれた詩人と言っていいだろう。

 

極めて特異な詩風でありながら、きっちりと詩壇から評価されているのは、おそらくは、会田綱雄の着実な詩作の継続のためだと思われる。

 

私が持っている「会田綱雄詩集」は現代詩文庫だが、今は絶版のため高額すぎて入手しづらい。

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