ミリオンダラー・ベイビー」という映画をご覧なったことがあるだろうか。

 

2004年のアメリカ映画である。監督はクリント・イーストウッド

 

 

こういう映画は、語り出したらキリがないほど言葉が次々から出てきてしまうはずだ。

 

なぜなら、傑作中の傑作だから、多彩な魅力が詰まっているからだ。

 

しかし、見終わった今、多くを語りたくはない。

 

エンディングの音楽

 

あえて言葉を発するとしたら、エンディングの音楽にすべてだ、としか言いようがない。

 

この静けさ……空虚だが、そこには不思議な安らぎがある。

 

この音楽だけでいいのではないか。映画の本編も必要ない、そう言ってしまいたくなるほど、深い哀しみと嘆きの渦を、優しい眼差しと微笑みで洗い流してくれるような聖母の愛をほうふつとさせるピアノの調べを、監督のクリント・イーストウッドは我々に贈ってくれた。

 

クリント・イーストウッドの演技

 

クリントイーストウッドが出演した映画はいろいろ見てきたが、この「ミリオンダラー・ベイビー」がベストワンではないだろうか。

 

いや、ベストとか順位をつけられない、至り尽くした境地に、クリントイーストウッドの演技は達していた。

 

その演技力をどのように評したらいいのだろうか。あえて言うなら、それは「抑制」だろう。

 

抑えておさえた演技が、演技を超えて、人間の正体、本質といったものを、映画を見る者にたちに伝えている。

 

そこには、何の説明もない。

 

テーマは運命愛か

 

人生の問題を突き詰めると、どうしても「運命」という言葉にぶち当たってしまう。

 

人生には正義も悪もない。罪も罰も、大した意味はなく、ただ、あるがままにそのままに、自分の運命を受けいられらるか、それだけに人生の命題は極まる、と最近の私は考えるようになった。

 

最近見た優れた映画のテーマは、すべて「運命」あるいは「運命愛」だと感じる。

 

八月のクリスマス」「天使のくれた時間」「ゴースト ニューヨークの幻」「レナードの朝」、そして「ミリオンダラー・ベイビー」。

 

傑作と呼ばれるにふさわしい作品のテーマが、イデオロギー的なお題目であったためしは一つもない。

 

概念語で割り切れてしまう作品など、鑑賞に値しない。

 

「運命を受け入れられるか」「運命を愛せるか」、それだけが問題なのだ、きっと。