ルイ・マル監督の名作映画「死刑台のエレベーター」を見た感想

名作映画として名高い「死刑台のエレベーター」。

1957年・仏。監督・脚本:ルイ・マル。原作:ノエル・カレフ。出演:モーリス・ロネ、ジャンヌ・モローほか。

25歳の仏映画界の新人監督ルイ・マルが、推理作家ノエル・カレフの原作を、自身と新進作家ロジェ・ニミエの共同で脚色、ニミエが台詞を書いた新感覚スリラー映画。

これは、絶対に一度は見ておくべき映画ですよ。

巻頭から巻末までをモダーン・ジャズで通した音楽は、トランペット奏者で作曲家のマイルス・デイヴィスで『メイン・タイトル』『エレベーターの中のジュリアン』『夜警の巡回』などと名づけられた10曲が演奏される。

1957年、ルイ・デリュック賞を得た。

極めて完成度の高い作品。

全編を流れる、けだるい感覚は、フランス人特有のものか。

これだけ冷静に物が見られたら、世界観はずいぶんと変わるだろうと、しみじみ思ってしまう。

それにしても、緻密な中に冴えを感じさせてくれる貴重な模範的古典シネマだ。

批判ではなく、正直、現在見た感想を述べたい。

どうしてもイライラしてしまう。テンポが遅いからだ。

「太陽がいっぱい」や「鬼火」にも出ていたモーリス・ロネが魅力に欠ける。

もちろん、この映画はサスペンス以上に登場人物の心の動きを重視した心理映画である。

それにしても、後味が悪い。

クールが美徳だとフランス人は本当に考えているのだろうか。

こんな幼稚な疑問を投げかけたくなるほど、耐えがたい感性のギャップがある。

ああ、どうして、こんな当り前なことを書いているのだろう。

フランス映画は見ない方がいいのかもしれないと真剣に思っている。

しかし、である。このブログの目的は自分の好みにのみ拘泥するためではない。

少し客観的にこの名作をチェックしてみよう。

原作を読んだわけではないので、その構成の違いはわからない。

確かなのは、ストーリーラインの鮮烈さ、美しさである。

映像と音楽も秀逸だが、それはおくとして、構成力だけ取り上げても、ここまで気配りの利いた映画も稀有である。

あざとさが気になるよりも、技巧の冴えに魅了されてしまうのだ。

優れたストーリーは、必ずどの場面も完全なる結末のために有効的に作られている。

避けられない、宿命のようにエンディングに向かって、すべては収束させられてゆく。

だから、受けて側は、物語が進行するにしたがって緊張感と期待感をつのらせるのである。

前半はいいのだが、後半がどうもという作品がしばしばある。とんでもないことだ。それでは、ストーリーテリングの本道の逸脱である。

すべてのシーンは結末のために描かれている。

その鉄則を失った時、物語は力を失う。

(結末を決めないで書く、そういう作家もいるし、その魅力も捨てがたいのだが…)

このルイ・マル監督の処女作は、鮮やかなストーリーラインだけでも、見る価値のある名画だと言えるだろう。

苦しい時に勇気づけられる映画、そのベスト1は?

  • 黒澤明

喜劇王であるチャールズ・チャップリンが自伝を執筆中に、くじけそうになると、ベートーヴェンの交響曲を聴いて、自らを励ましていたそうです。

 

あのチャップリン自伝はおそろしく長いですからね。執筆のプロではないチャップリンが、あの自伝を書き上げるのは容易ではなかったでしょう。

 

人はそれぞれ、苦しい時に接することで自らを鼓舞する芸術作品を持っているのではないでしょうか。

 

私自身も、心身ともに憔悴しきってしまうことがあります。

 

そんな自分を励ましたいと思って、最近見た映画があります。それは、黒澤明監督の「七人の侍」です。

 

「七人の侍」については、以前にも書いたことがあります。

 

心が疲れた時に、これほどよく効く映画を他に私は知りません。

 

黒澤明が生涯をかけて語ろうとしたことのほとんどすべてが、この「七人の侍」には込められています。

 

この映画「七人の侍」を見ると「明日もまた生きてみよう。自分なりに力を尽くしてみよう」と思い、体の芯からパワーが湧いてくるのです。

 

難しい映画評論など必要なく、この映画の持つ単純な力こそ、私には尊いのだと思えてなりません。

 

ただ、この映画のテーマを一言で言い表すとしたら「運命愛」ということになるでしょう。

 

黒澤明が敬愛したドストエフスキーの小説世界がそうであるように、ヒューマニズムの結末は必ず悲劇を招きます。

 

そうした悲劇をも含めて愛しきる魂の姿勢が「運命愛」だと思うのです。

 

また、この「運命愛」という言葉こそ、今の私を勇気づけてくれる言葉も、他にはないと感じています。

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山田洋次「東京家族」と小津安二郎「東京物語」の比較と感想。

山田洋次監督の映画「東京家族」をdTVで鑑賞しました。「東京家族」は2013年に公開された日本映画。

 

映画「東京家族」はこちらで視聴可能です

 

この映画が小津安二郎監督の映画「東京物語」のリメイクだということは、見ればすぐにわかります。

 

この二つの映画を比較した時、どちらが上か下かで評価しようとすることは、私にとっては意味がありません。

 

小津安二郎の「東京物語」は完成された芸術です。で、その芸術をリメイクして、どれくらい面白い映画を山田洋次が作ったのかを、楽しみたいだけでした。

 

予想以上に、山田洋次は、原作をなぞるように作っていました。人物配置とストーリーは、ほとんど同じだと言っていいくらいです。

 

しかし、山田洋次監督は原作の物語展開、場面設定、セリフ回しなどを、忠実に継承しているにもかかわらず、小津映画とはまったく異なる映像空間が出来上がっていたのでした。

 

結果として、家族の哀歓と人の温もりを、山田洋次節で歌い切ったという感じ。

 

小津安二郎の「東京物語」のテーマも家族の悲哀ですが、そのテーマを超えた神の領域が小津フィルムにはあるのです。

 

長年連れ添った女房が息を引き取った朝、ずっと朝焼けの空を見つめていた笠智衆、そこに歩み寄る原節子。「今日も一日、暑くなるぞ」と言う笠智衆。

 

日本映画史上に残る名シーン。このシーンには、神々しいまでの清らかな魂が映像化されていて、絶句するしかありません。

 

小津安二郎の「東京物語」の感想はこちらの記事に

 

そうした聖なる領域が、山田洋次フィルムにはありません。そのかわり、庶民の生活感覚を生活者の視線から、物の見事に表現しています。

 

庶民の感情を描かせたら、山田洋次の右に出るものはないでしょう。そこには、他の映画監督にありがちな概念的表現がなく、あくまで生活感覚であらわしているのです。

 

小津安二郎の描く世界は現実にはありません。聖なる幻想と呼びたくなる神映像です。現実というには、あまりにも美しすぎるのです。そこに流れるものは、バッハをほうふつとさせる気高い精神性と美意識でした。

 

山田洋次の描く世界は限りなく現実に近い。生活者が映像の中に自然に息づいていると感じるくらい、生活者の皮膚感覚が生かされています。

 

もちろん芸術としては小津安二郎の「東京物語」が優れています。でも、山田洋次の「東京家族」には人肌の温もりがあり、その点において佳作であると思いました。