黒澤明の「白痴」ではなく、ジョルジュ・ランパンの「白痴」を見た。

黒澤明の名作映画「白痴ではなく、映画「罪と罰」の監督として知られる、ジョルジュ・ランパンの「白痴」を鑑賞しました。

製作年 : 1946年
製作国 : フランス
監督は「罪と罰」のジョルジュ・ランパン。
脚本はドストエフスキー原作の小説『白痴』を基に「嘆きのテレーズ」のシャルル・スパークが執筆。
出演は「パルムの僧院」のジェラール・フィリップ、「青い麦」のエドウィージュ・フイエールほか。(goo資料より)

この映画がどれくらい評価されているのかわからない。
ネットで見つけた感想では、いまいちと書かれていた。
だが、どうして、なかなかの力作だ。
まず言っておきたいのが、これはフランス映画だということ。
だから、セリフもすべてフランス語で語られている。
ドストエフスキーの原作にある、あの狂おしいほどの濃密な世界を、あの乾いたテイストのフランス映画で表現できるかと疑問に思う方も多いだろう。

フランス人がどうやって、あの「白痴」の世界を描き出すのか、興味深く見た。
予想通り、非常に洗練された映像に仕上がっている。

主人公の男優と主演の女優が、たいへん綺麗だった。

ムイシュキン公爵役のジェラール・フィリップは、時に蝋人形のように怪しく、ある時は彫像を想わせる。あれほど幻想的なまでに、主人公を美しく描き出した手腕はただものではない。

「白痴」という小説のテーマの一つに「美によって世界は救われる」があるらしいが、確かに、この映画は美なるものを描きえていると感じた。

ナスターシャ役のエドウィージュ・フイエールは、最初から最後まで熱演につぐ熱演。白と黒の衣装換えは印象的。聖なるもの、魔的なものを、巧みに演じていた。

光の使い方もデリケートだし、音楽、役者の衣装、舞台の道具立ても凝っている。

脚本も原作の贅肉がそぎ落とされ、ばっさりとスリム化されていた。だから、くどくどしさがなく、すっきりしたストーリー展開が楽しめた。

これはこれでいいと思う。ドスト的世界を忠実に再現するのだけがドスト映画ではない。監督なりの解釈で別の世界を作るのは自由だろうから。

ムイシュキン公爵、ロゴージン、ナスターシャの三者に、アグラーヤのからむ心理描写は、やはり見ごたえ充分だった。

それにしても、実にナイーブで、美しい映画だった。この微細な心理描写には、深い愛着を覚えた。

ブラック&ホワイトの映像は象徴性を帯び、目には見えない人間の暗部させも表出していると感じる。現代の映画に最も欠けているのは、この「象徴性」ではないだろうか。

黒澤明の「白痴」と比べてしまうと、まず言えるのが、ドストエフスキー的な世界の踏み込み方が、圧倒的に黒澤のほうが深いということだ。

だからといって、黒澤の作品のほうが優れているとは一概にはいえないだろう。

作品の洗練度は、このジョルジュ・ランパンの「白痴」のほうが数段優れている。

ともあれ、作品を比較したり、上下をつけることは慎みたい。それほど、この二本の映画は、何度見ても尽きない魅力があふれている。

といいつつも、やはり原作はあまりにも偉大。活字も大きくなった新潮文庫版が読みやすいので、オススメしたい。

「僕の生きる道」からは静かな音楽が聞こえてくる。

草なぎ剛が主演したドラマ「僕の生きる道」を見返している。

この設定と展開で、グイグイと引き込まれるとは……

 

『僕の生きる道』(ぼくのいきるみち)は、2003年1月7日から3月18日まで火曜日 22:00 - 22:54(JST)にフジテレビ系列で放送されていたテレビドラマ。

 

やはり、演出がいいのだろうか。

 

「僕シリーズ」はすべて見ている。3部作あるのだが、どれか一つを選ぶのが困難なほど出来がいい。

「僕の生きる道」は、その第1作目。

 

癌と知った主人公が懸命に生き始めるドラマ。

黒澤明の「生きる」の影響が少し見られるが、パクリという感じは全くない。

制作者は、独自の世界観を持っているらしく、それを精妙に提示してくるので、文句のつけようがない。

 

このドラマには、ずっと静かな音楽が鳴っている感じがする。

ドラマはずいぶんたくさん見てきたが、そういうドラマに出逢ったのは初めてだ。

 

そう、この静けさがいい。静かでありながら、豊かな生命力というものが清澄な調べとなってこちらに伝わってくるようだ。

 

草なぎの好演が何と言っても光っている。

一時の菅野美穂がそうだったが、一つ間違えば病的ととれるくらい、繊細で微妙な心の揺れを表現していて、思わず性格俳優と呼びたくなるのである。

 

こういう質の高い作品が年に5本ぐらい出てくれば、大満足なのだが、現実はそうではない。

 

こうした精神性の高いドラマが、毎年作られることを望むばかりである。

柳田国男「遠野物語」には「日本人の心のふるさと」がある。

柳田國男の「遠野物語」を、心を空しくして、繰り返し読んでいます。

 

読んでいるというより、感じていると言った方が適切かもしれません。

 

柳田国男「遠野物語」

 

こういう言葉が生き生きと呼吸している世界に触れると、「言葉の力」というものを、改めて考えざるを得ないのですね。

 

思うに、もう二十年以上も、私は文章を書くことで生計を立てています。

 

大学は文学部でしたが、幼い頃から本が好きだったわけではありません。まさか、自分が文筆業で生活するようになるとは、思春期の頃は思いもよらなかったのです。

 

私は2011年の大震災の年に、体調を壊し、精神的にも「どん底」まで沈み込んでしまいました。

 

その時に書こうと思ったのが、「言葉」に関する教材であり、それはもう運命であるかのように、専心しようとしたのでした。

 

なぜ、言葉について書こうと思い立ったのかというと、実は自分でも判然としません。

 

おそらくは、心の故郷としての「言葉」について、今とことん突き詰めておかないと、自分自身を見失いかねないという思いがあるからかもしれません。

 

ところで、心の故郷が感じられる言葉は、どこにあるのでしょうか?

 

柳田国男の「遠野物語」。

 

この本の中に、ひょっとするとあるのではないか、そう思って読んだのが、この文庫本です。

 

いきなり、本編の物語を読んだ方がいいですね。

 

不思議で、怖くて、美しい話を読んで、全身に鳥肌が立つのを体験できる。それが、この本の最高の素晴らしさでしょう。

 

「遠野物語」を研究する必要は、私にはありません。学者ではないですから。

 

ただ、この物語の言葉の力に酔いしれていたい、ただ、それだけです。

 

こういう言葉が生き生きと呼吸している世界に触れると、「言葉の力」というものを、改めて考えざるを得ないのですね。

 

言葉には様々な力がありますが、中でも「喚起力」は、言葉の持つ尊いパワーだと思います。

 

「遠野物語」を読んでいると、ふだんは眠っている感覚を呼び覚まされるのを感じます。

 

五感とかそういう現実的な感覚だけでなく、深い無意識化に沈んでいる何かが目覚めるのを鮮やかに実感できるのです。

 

いろんなメディアが発達し、情報は増えたけれども、私たち現代人の感性は、かなり鈍化していると言わざるを得ないでしょう。

 

情報を処理することに追われて、自分の感覚を閉じてしまっていることさえ、忘れてしまっている日常……それは、ちょっと怖い気がします。

 

私が今もっとも危惧しているのは、ふるさとの喪失です。生まれ故郷という意味ではなく、心のふるさとを私たちは、見失っていると、強く感じてます。

 

言葉を見つめなおし、言葉の力によって、忘れていた故郷を見いだせるならば、きっとこれからの人生は、不安が薄れ、豊かな時間が流れてゆくのではないのではないでしょうか。