柳田國男の「遠野物語」を、心を空しくして、繰り返し読んでいます。
読んでいるというより、感じていると言った方が適切かもしれません。
こういう言葉が生き生きと呼吸している世界に触れると、「言葉の力」というものを、改めて考えざるを得ないのですね。
思うに、もう二十年以上も、私は文章を書くことで生計を立てています。
大学は文学部でしたが、幼い頃から本が好きだったわけではありません。まさか、自分が文筆業で生活するようになるとは、思春期の頃は思いもよらなかったのです。
私は2011年の大震災の年に、体調を壊し、精神的にも「どん底」まで沈み込んでしまいました。
その時に書こうと思ったのが、「言葉」に関する教材であり、それはもう運命であるかのように、専心しようとしたのでした。
なぜ、言葉について書こうと思い立ったのかというと、実は自分でも判然としません。
おそらくは、心の故郷としての「言葉」について、今とことん突き詰めておかないと、自分自身を見失いかねないという思いがあるからかもしれません。
ところで、心の故郷が感じられる言葉は、どこにあるのでしょうか?
柳田国男の「遠野物語」。
この本の中に、ひょっとするとあるのではないか、そう思って読んだのが、この文庫本です。
いきなり、本編の物語を読んだ方がいいですね。
不思議で、怖くて、美しい話を読んで、全身に鳥肌が立つのを体験できる。それが、この本の最高の素晴らしさでしょう。
「遠野物語」を研究する必要は、私にはありません。学者ではないですから。
ただ、この物語の言葉の力に酔いしれていたい、ただ、それだけです。
こういう言葉が生き生きと呼吸している世界に触れると、「言葉の力」というものを、改めて考えざるを得ないのですね。
言葉には様々な力がありますが、中でも「喚起力」は、言葉の持つ尊いパワーだと思います。
「遠野物語」を読んでいると、ふだんは眠っている感覚を呼び覚まされるのを感じます。
五感とかそういう現実的な感覚だけでなく、深い無意識化に沈んでいる何かが目覚めるのを鮮やかに実感できるのです。
いろんなメディアが発達し、情報は増えたけれども、私たち現代人の感性は、かなり鈍化していると言わざるを得ないでしょう。
情報を処理することに追われて、自分の感覚を閉じてしまっていることさえ、忘れてしまっている日常……それは、ちょっと怖い気がします。
私が今もっとも危惧しているのは、ふるさとの喪失です。生まれ故郷という意味ではなく、心のふるさとを私たちは、見失っていると、強く感じてます。
言葉を見つめなおし、言葉の力によって、忘れていた故郷を見いだせるならば、きっとこれからの人生は、不安が薄れ、豊かな時間が流れてゆくのではないのではないでしょうか。