金子みすゞの「さびしいとき」という詩をご紹介します。
さびしいとき
私がさびしいときに、
よその人は知らないの。
私がさびしいときに、
お友だちは笑うの。
私がさびしいときに、
お母さんはやさしいの。
私がさびしいときに、
仏さまはさびしいの。
道徳や宗教から、金子みすゞの詩を解釈する危険性
最後の連に「仏さま」が出てきますが、仏教(仏教徒)の視点(立場)からこの詩を解釈しようとすると無理が出てくるので、素直に感じたままに受け入れましょう。
素直に読む、これにまさる詩の読解法はありません。
金子みすゞの詩「さびしいとき」を鑑賞する場合、「道徳」とか「宗教」とかにつなげすぎて「一つの結論を出す」「一本のみの道を示す」というのは、率直に申し上げますが、できるかぎり慎むべきだと思います。
金子みすゞの詩は、道徳教育の専門家でもなければ、宗教家でもありません。宗教詩人でもないのです。
詩はあらゆるものから自由でなければならない、詩心の大きな美点の一つに「自由」がああります。
私が提唱する『詩心回帰』の「詩心の7つの美点」中で、以下のように述べております。
既成概念、固定概念、先入観、道徳、宗教、イデオロギー、あらゆる洗脳・謀略工作などから自由な精神を詩心と呼ぶ。
とにかく、宗教的、あるいは道徳的に詩を解釈して、多くの人と共有しようとすることは避けてほしいと思います。
詩は時に反道徳的であり、反宗教的でもあります。もちろん、道徳的、宗教的な詩もありますが、詩を道徳や宗教といった既成概念という枠にはめようとすることは、詩の本来ある魅力を否定することになりかねません。
前置きが長くなりましたが、金子みすゞの詩「さびしいとき」について、以下、少しく語らせていただきます。
当然のことながら、私は自分の解釈を押し付けようとする気はありません。何らかの参考にしていただけたら幸いです。
「仏さまはさびしいの」という結びにある、永遠性…
この「さびしいとき」は4つの連で構成されています。1~3連は、容易に理解できるでしょう。
問題は4つ目の最終連です。
私がさびしいときに、
仏さまはさびしいの。
「仏さまは」であって「仏さまも」ではないことに注目してください。
仏様はみすゞを客観的に見ているわけです。みすゞに同情して、寂しい理由を察して、いっしょになって寂しさを共有してくれてるという程度の解釈なら問題ないと思います。
でも、そこからさらに進んで仏教の慈悲の精神、仏道などを解くというふうでは、みすゞの詩が伝えてくれている「子供心の素直な表白」という「素朴」な魅力を抑え込んでしまいかねません。
ですから、幼い金子みすゞが「私がさびしいときに、ほとけさまは さびしいの」と素直に感じたことを、私たちも素直に受け入れる、それがベストでしょう。
「私がさびしいときに、ほとけさまは さびしいの」という言葉の連なりから、私たちが感じとれたこと、それがすべてであり、それ以外にこの詩の価値はないのです。
道徳や宗教の教義、数学の解答のような明快な結論を、この詩「さびしいとき」は明示していませんし、それを強引に読み取ろうすると無理が生じます。
寂しい時は寂しい。嬉しい時は嬉しい。ただそれだけのこと、と金子みすゞは言いたいのではありません。
金子みすゞは、哀しみや寂しさをしばしば詩にします。なぜなら、哀しい時に、寂しい時に、人生のこと、この世のことが、よく見えてくるから。哀しい時に、人生はさまざま色彩を帯びた真相を明らかにするから。
「人は悲しみを捨ててはいけない。悲しみがなくなると人は無訓練になるから」という意味のことを、「考える人」という彫刻で有名なロダンは言っています。
ロダンは稀有な人生肯定の人であり、高村光太郎にも多大な影響を与えました。
もちろん、ロダンは、「悲しみ」から、今より豊かになれる「歓び」をつかむべきだと、私たちを励ましているのです。
金子みすゞは詩「さびしいとき」には、他のみすゞの詩と同じように、生きとし生けるものへの愛情と、生きることの寂しさ(哀しみ)が、表出されています。
私がさびしいときに、
仏さまはさびしいの。
ただ大事なのは、この詩、上の二行には「人生は寂しいものだ」という決めつけや諦(あきら)めはないことです。
あるのは「寂しいけどもっと愛したい。愛したいから寂しくなる。人生から、この世から、寂しさが消えればいいけど、仏様でも寂しさはなくせないかもしれない。でも、愛してゆきましょう」という言葉にならない強い思いですね。
金子みすゞは、悟りを開いたわけでもなく、一つの結論を見出したわけでもありません。仏様に救われたわけでもないのです。
もっと愛したい、和合したい、という切なる思いが読み取れるからこそ、私たちにも似たい感情を抱いているから、私たちはこの「さびしいとき」に共感し、感動すら覚えるのだと思います。
「~たい」という願望があるから、人は寂しい。実は寂しさのない国などない。でも、人を愛しつつ、生き続けてゆく……それが、人生でしょう。
自分も自分以外のものもみんな慈しみたい、自分の存在を超えるものとも和合(調和)したいという、祈りに似た気持ちを、金子みすゞは決して高らかに歌い上げません。
「私がさびしいときに、ほとけさまは さびしいの」という、「私」という主観視点に、「仏さま」という神様視点を加えて、ストイックな客観表現で結んでいる。
この結末に、金子みすゞの詩の普遍性(永遠性)が息づいているのではないでしょうか。
優れた詩は「結論」を出しません、作者である詩人は「結論」を出さなかった、あるいは出せなかったのです。それなのに、一読者が一つの「結論」を導き出し、それを正解として共有しようとはしてはいけないのです。
金子みすゞは、時に「悩ましい最後の一行」を書くことがあります。名作「こだまでしょうか」の最終連「こだまでしょうか、いいえ、誰でも」も、多くの解釈を生み出していますよね。
「こだまでしょうか」の私のレビューも、参考にしていただけたら幸いです。
⇒金子みすゞの詩「こだまでしょうか」の最後の一行「いいえ、誰でも」の意味