新川和江の「ふゆのさくら」という詩をご紹介。
ふゆのさくら
おとことおんなが
われなべにとじぶたしきにむすばれて
つぎのひからはやぬかみそくさく
なっていくのはいやなのです
あなたがしゅろうのかねであるなら
わたくしはそのひびきでありたい
あなたがうたのひとふしであるなら
わたくしはそのついくでありたい
あなたがいっこのれもんであるなら
わたくしはかがみのなかのれもん
そのようにあなたとしずかにむかいあいたい
たましいのせかいでは
わたくしもあなたもえいえんのわらべで
そうしたおままごともゆるされてあるでしょう
しめったふとんのにおいのする
まぶたのようにおもたくひさしのたれさがる
ひとつやねのしたにすめないからといって
なにをかなしむひつようがありましょう
ごらんなさいだいりびなのように
わたくしたちがならんですわったござのうえ
そこだけあかるくくれなずんで
たえまなくさくらのはなびらがちりかかる
この「ふゆのさくら」は、恋愛詩、愛の歌、というジャンルに分類されるでしょう。
愛の歌において、最もつまらないのは、概念的、観念的な詩であります。
概念的な詩が面白くないのは、心と頭が分離している場合、頭が生み出す言葉が先走って、心がついてこれなくなっている場合です。
恋愛詩が成功する時は、心と頭、そして心臓(命・生命)が一体化する時だと私は思っています。
私のこのブログで取り上げた恋愛詩で、その一体化がなされているのは、高村光太郎の智恵子抄、そして折笠美秋の短歌でありましょう。
では、新川和江の詩「ふゆのさくら」はどうか?
全編を「ひらがな」表記にすることで、概念性と観念性に浸食されることを防いでいます。
漢字やカタカナを一つの使わなかったことが、この「ふゆのさくら」の勝利の一員に違いありません。
心と頭に隙間がないということは現代詩にとって奇跡に近い。それくらの難行です。
しかし、新川和江の「ふゆのさくら」は、しっとりと言葉が心に、雨に濡れた桜の花びらが石に貼りついているように、寄り添っていて、概念的になりやすい危険を回避しています。
なぜ、そうなったのか?
新川和江の人間への愛の深さ、言葉をできるかぎり、頭ではなく心でしたためようという不断の努力の賜物でありましょう。
そのため、この恋愛詩は、恋愛詩というジャンルを超えた「命の歌」にまで昇華されているのであります。