3月28日から5月2日まで入院生活を送っていた。
退院して、体が回復してきて、そろそろ動きはじめようと思っているのだが、入院前と入院後では、自分の中で大きな変化が起きていることに、ようやく気づいた。
一言でいうと「狂気」に惹かれている。「凶器」と置き換えても、いい。
例えば、音楽の嗜好が変わってしまった。
これまで全く興味がなかった韓国の音楽を聴いている。
昨日も書いたのだが、Naviとパク・ファヨビを聴いている。
K-POPというと、少女時代とかが凄い人気だけれども、楽曲をキッチリ聞かせる歌手もたくさんいるようだ。
Naviもファヨビも、実力派の歌手と言っていいだろう。
K-POPについて語れるほどの知識など持ち合わせていないけれど、ただ言えるのは、その勢いの凄まじさだ。
水面が表面張力を超えて、盛り上がっているような無節操な力を感じる。
暴力的なパワーだが、それを「狂気」と呼んでよい気がする。
この「狂気」、あるいは「凶器」に惹かれてしまっている自分を見つけて、当惑しているのだ。
韓国のドラマや音楽こそ、商業主義のかたまりであって、そういう世界には馴染めないはずだけれども、韓国のエンターテイメント・コンテンツは、動機が何であれ、その注入エネルギーが臨界点をこえんばかりなために、逆に享受する側は、ピュアな感じを受けるから不思議だ。
というか、韓国の音楽なり、ドラマは、本当に純粋な面があり、それは深く、普遍的なパワーを生み出していると感じてしまいそうになるのである。
特に、初期のファヨビ。
アルバムの1集と2集(ともに廃盤)を買って聴いてみたが、その歌唱法は、マライア・キャリーとかの影響が大きいけれども、それはあくまで意匠(表面的な現象)に過ぎないとわかった。
内面の歌心(歌声が湧き出る源泉)は怖ろしく深い。韓国の民族性かとも思ったが、それより、さらに深いところから、歌い上げているのだ。
宇多田ヒカルの歌唱が、ニューヨークテイストの演歌だという意味よりも、激しく深い何かを、ファヨビの歌には感じる。
だから、国籍とかジャンルとかはどうでもよく、ただファヨビの「歌」に聴きほれてしまった。
ファヨビとかNaviの噴出させる世界は、健康的ではない。毒性が強く、理性を麻痺させ、狂気への扉を開けようとする強い衝動を覚えるのだ。
今なぜ、こういう音楽を聴き、「凶器」に惹かれるのか、わからない。
理性が入る余地のない、それほど純粋な「狂気」という名の生命エネルギーが、ひょっとすると、私の内側からも吹き出してくるのかもしれない。そんな意味不明な予感さえしているのである。