真昼の星群~風花未来の詩13

遠い遠い、幼い頃の記憶です。

 

夢なのか、うつつなのか、あまりにも遠い過去のことで、わからないのですが、ただハッキリしているのは、あれほど鮮明な映像は見たことがないことです。

 

真昼の星群

 

あの晴天の午後

暗い部屋の小さな窓から

幼いわたしはひとり

真っ青な空に

無数の星を見た

 

いつもいっしょに

小さな窓から外を眺める

兄はその日はいなかった

真昼に星を見たのは

初めてだった

 

鋭い叫び声が聞こえたが

それはわたし自身の声にならない叫びだった

声にならない叫びを

小さな胸の奥に飲みこんだまま

わたしはその日

うれしいような

こわいような

そんな気持ちで

ふるえながらすごした

 

晴天の午後に見た星のことは

誰にも言わなかった

 

その日のことを

何十年も経った

今おもいだすと

ほんとうに真昼の星群を見たのか

それとも夢だったのか

わからなくなる時がある

 

あの時のわたしは

狂っていたのか

それとも正気すぎて

冴えかえった心の眼に

蒼穹の星が映ったのか

 

ただ忘れようもないのが

あの無数の星ぼしの

こわいほどの

鮮やかさ

うつくしさ

 

あの確かさは

たとえ夢だとしても

あれほど

はげしく

狂おしい

光景は見たことがない

 

とおいとおい

幼い日の記憶である

 

東向きに小さな窓がある、暗い部屋の記憶。

 

よく晴れた日には、その窓から、遠くに富士山が見えたものでした。

 

青空に、突然現れた星群、それらを見た、あの時の感覚が、確かに今、はっきりと蘇えりました。

 

あの記憶が、夢であろうと、現実であろうと、もうどうでもいい気がしています。

 

確かに、わたしが真昼の星群れを見た、そのことには間違いはないのですから。

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金子みすゞの詩「蜂と神さま」

金子みすゞの「蜂と神さま」というをご紹介します。

 

【動画】金子みすゞの詩「蜂と神さま」の朗読。風花まどか大学の「詩学」のことも…

 

蜂と神さま

 

蜂はお花のなかに、

お花はお庭のなかに、

お庭は土塀のなかに、

土塀は町のなかに、

町は日本のなかに、

日本は世界のなかに、

世界は神さまのなかに。

 

そうして、そうして、神さまは、

小ちゃな蜂の中に。

 

金子みすゞの「視点移動と空間(宇宙)感覚」が、ときめきにみちた新鮮な世界を現出

 

金子みすゞが、この詩「蜂と神さま」で示した、視点空間(宇宙)感覚が、素晴らしい。

 

この視点の動きと、空間をとらえる感覚は、詩人特有のものですが、金子みすゞの場合は、際立って優れています。

 

蜂⇒お花⇒お庭⇒土塀⇒町⇒日本⇒世界⇒神

 

このように金子みすゞは「蜂と神さま」で、視点をひきつつ、より大きな空間をとらえてゆく。

 

「視点」を、映画のカメラで考えるとわかりやすくなりますよ。

 

蜂をクローズアップで映していたのを、カメラを次第にひいてゆき、世界全体を映し出し、最後には、カメラで映し得ない、神様視点にまで至っています。

 

そして、見事なのは、最後。

 

極大の視点であったはずの神様視点は、蜂の中という極小の視点にまで、一気に移行してしまいました。

 

極大から極小への視点移動が、神がかった快感を生み出したわけです。

 

詩人は時間と空間に関する感覚が、常人とは異なる。時間を空間を自由に移動できる、優れた「時空感覚」を有しているのです。

 

このことについては、他の詩作品のレビューでも、何回も語りました。

 

問題は、実は別のところにあります。この問題は、私個人の問題なのですが、ひょっとすると他の人にも当てはまるかもしれません。

 

先ほどまで感じていた、書きたいと思っていたことを、先取りされたという感覚

 

先ほどまで自分が感じていて、詩に書いてみたいと思っていたことを、金子みすゞに先を越されて(書かれて)しまった、そんな感じのする詩が、実は金子みすゞには多いのです。

 

だから、金子みすゞの詩に、強い共感を覚えるわけです。

 

しかし、その一方で、「やられた」「先取りされた」「先手をとられた」「先を越された」というふうな、喪失感、あるいは挫折感に近いものを覚えるのです。

 

これは、嬉しい喪失感ですけどね。嬉しい悲鳴に近い感覚。

 

小説家のスティーヴン・キングは、優れた作家の小説を読むと「打ちのめされる」と書いています。

 

金子みすずの詩んだ時の強い感銘は、打ちのめされるというよりも、アッと驚いて、空いた口を閉じるのを忘れてしまうような、とびっきり純粋なサプライズと形容すべきでしょうか。

 

金子みすゞは、ど真ん中、まん真ん中を射貫く名人ですね。的をはずす(射た矢が的からそれる)なんてことはありません。

 

金子みすゞの詩に「ハズレなし」。

 

「うんうん、確かに、そういうことってあるよね」「それそれ、そのことを言いたかった、共有したかった」「あっ!? どうして、それがわかるの? 私がいま口に出そうと思っていたことなのに」……そういうことを金子みすゞは、詩にしてくれているので、ありがたいような、ありがた迷惑のような……(苦笑)。

 

それにしても、金子みすゞの詩にから受ける「先越され感覚」には、鮮烈、いや、激烈なものがありますね。

 

※金子みすゞのその他の詩はこちら⇒金子みすゞの詩まとめ

 

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映画「飾窓の女」の完璧なラストに、ため息がもれた。

「飾窓の女」(かざりまどのおんな、The Woman in the Window)は、1944年のアメリカ映画。日本で公開されたのは、1953年である。

 

監督はフリッツ・ラング

 

若い魔性の女(ジョーン・ベネット)に、が演じる犯罪学の教授(エドワード・G・ロビンソン)が夢中になってしまい、とんでもないトラブルに巻き込まれていくストーリーは見事である。特にラストシーンは完璧だ。

 

主人公の教授が、飾り窓の肖像画に魅せられ、驚いたことには、肖像画のモデルが現れ、誘われてしまうことから物語が急激に動き始める。

 

ラストシーンでも、飾窓の肖像画で効果的に使われている。

 

ネタバレになるので、これ以上は物語に関することは書けないが、ストーリーの切れ味が鋭く、切れ味の冴えに快感を覚える。99分間というほど良い長さなので、間延びせずに楽しめた。

 

実に古い映画だが、アマゾンプライムの画質も良好で、予想以上に名画を堪能できた。