西條八十(さいじょうやそ)の「」という詩をご紹介します。

 

 

やがて地獄へ下るとき、

そこに待つ父母や

友人に私は何を持つて行かう。

 

たぶん私は懐から

蒼白(あおざ)め、破れた

蝶の死骸をとり出すだらう。

さうして渡しながら言ふだらう。

一生を

子供のやうに、さみしく

これを追つてゐました、と。

 

西條八十の数多い詩、歌詞の中で、この「蝶」を愛する人が多いようです。

 

なぜなら、ネットで多くの人が感想を書いているから。

 

気になるのは、なぜたくさんの人たちが、西條八十の「蝶」を愛しているのかということ。

 

この「蝶」という詩が、多くの人の心を惹きつけてやまないのは、そこには人生の真実があるからではないでしょうか。

 

詩というと、人生の美しい側面、夢や幻想を与えてくれるものだと考えがちかもしれません。

 

しかし、実はそういう幻影には、人の魂を救済する力は希薄なのです。

 

甘い陶酔よりも、凍り付くような真実を、人は希求しているのかもしれない。

 

「地獄」「下る」「蒼白め」「破れた」「死骸」「さみしく」というネガティブな言葉が、並べられています。

 

でもそのネガティブワードによって、私たちの魂が沈みこむことはない。

 

なぜなら、人生はそういうものだ(残酷なほどはかなく短い)ということを、私たちは知っている(予見している)から。

 

人生には口には出せない、他人には、いやどんなに身近な人にも話せない真実がある。西條八十の「蝶」には、誰にも話してはいけない、人生の真実がある。