私の若い頃には、離婚の原因は「かちかん」の違いと性格の不一致が多いとされていましたが、今でもこの傾向は同じでしょうか。

 

上の例文の中の「かちかん」を漢字になおした時、「価値感」と書く人が増えているといいます。

 

「価値観」が正しい日本語で「価値感」は間違い。

 

正しいのは「価値観」でして、そもそも「価値感」という日本語は存在せず、辞書にも載っておりません。

 

「歴史観」が正しい日本語で「歴史感」は間違い。「恋愛観」「結婚観」という言葉はありますが、「恋愛感」「結婚感」という言葉は存在しないのです。

 

では、どうして「価値観」を「価値感」と誤用してしまうのか。「観」を「感」と書いてしまうのか。

 

「直観」と「直感」はともに正しい日本語だが、意味が明確に異なる。

 

実は、「感」と書いても間違いではない言葉があります。それは「ちょっかん」です。

 

「ちょっかん」には以下の2つの日本語があります。「直観」と「直感」です。

 

「直観」とは、推論によるのではなく、直接に対象をとらえ、瞬間的にその全体や本質をとらえること

 

「直感」とは、感覚的に物事を瞬時にとらえること

 

「直観」の「観」は、ものの見方、考え方を指し、もともとは哲学用語と使われてきた言葉です。能動的な意味が含まれます。

 

「直感」の「感」はまさに感じることであり、外部の現象(事件)に対する反応を指します。受動的な意味を含む言葉です。

 

このように「直観」と「直感」はともに正しい日本語なので、「価値観」を「価値感」と安易に使ってしまう人が多いのでしょう。

 

そもそも日本人には「感」の方がなじみやすいかもしれない。

 

日本文化は「感受性の文化」とも言われます。四季折々の自然の微妙な変化を歌うことは、日本人の最も得意とする表現形式です。

 

もともと能動的な思索によって哲学や思想を構築することを、日本人は得意としていません。

 

「日本の叡智」と賞賛されてきた小林秀雄も「感覚的思考」と名人でした。小林秀雄はよく「直覚」という言葉を使った文芸評論家(批評家)です。

 

ノーベル文学賞を受賞した川端康成は小林秀雄に、小説を書くようにすすめていたことは有名。その理由は、日本には思想を持った小説家がいないから、だと川端康成は言っています。

 

川端康成がいう思想家・小林秀雄も、「感覚的思考」、即ち「感じる能力」を活用した思考法の達人であったのです。

 

小林秀雄を熟読しますと、小林秀雄の評論がいかに「感受性」に頼っているかがわかります。

 

もちろん、小林秀雄の作品には「感」だけでなく「観」も生きていますが、類まれな「感受性」を存分に活用して、物事の本質を見ぬいている点が秀逸なのです。

 

「直観力」は、「感受性」というよりも、「眼力」「洞察力」といった「見る力」に重きをおいた言葉であります。

 

その意味から、小林秀雄はみずからの「直感力」を駆使しながら、類まれな「直観力」を身につかた人だと言えそうです。